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One makes no number.

 

 本居宣長は、「玉くしげ」 のなかで、以下の文を綴っています。(参考)

     [ 1 ]
     (略) 大きな大名などでは、まず家臣の長になっている人々
     は、それほど国内の政治上の事にこまかには関係されないで、
     その次の役人がその中心の取締りにあたって処置をなさる
     とかいうことである。しかしこれは適当なやり方ではない。
     何事によらず中心における取り締り、それから政務の指令は
     家臣の長たる人の任であろう。

     [ 2 ]
      いったいに重いところから出た事は、横あいから妨げにくい
     ものであり、下々の者がそれをうけとる気持も格別で、いろ
     いろな事がきちんといくものである。その下の役人では、気が
     ねもあって諸事の処置がとかく萎縮しがちであり、(略) もし
     一国の政治上の仕事が一致しないで、たとえばここの役所の
     やり方と、あそこの役所のやり方とが相違して同一国内の行政
     とも見えず、まるで根本の方針が違ってでもいるようなふう
     であったならば、施政はおさまりがつかない。(略)

     [ 3 ]
     (略) ただ失策さえなければよいと考え、また自分の任務の
     期間内さえ過失なくすませれば、あとはどうなろうとかまわず、
     ただ自分の地位を守るための配慮だけを第一にして職務の
     ためにいうことは考えないようになっている。そしてたまたま
     心ある人がその任期の間に悪い事を直したりよい事を始めて
     おいたりしても、その人が他の役に転じて行くと、その後任
     の人は、そのよい施策を本気になって育てようともしないもの
     だから、たちまちそれは消えうせてしまって、よい事を始めて
     おいたのもなんの役にも立たないことになってしまう。(略)

     [ 4 ]
     (略) たといその人はどれほど交替しようとも、以前に一度
     約束しておかれた事は、けっして変えてはならぬはずである。
     すべてこのような事にしまりがなく、約束などが簡単に変る
     ようでは、しぜんと上を軽んじるもとになって、命令なども
     行なわれにくくなるわけである。

 [ 1 ] と [ 2 ] は、有体 (ありてい) の ことば で要約すれば、「トップ の参画」 ということでしょうね。たしかに、TM を 「全社標準」 (すべての プロジェクト で TM を使うこと) にした企業では、トップマネジメント (社長あるいは取締役) が TM を承認した場合のみでした。[ 1 ] の論点は、TM の普及において興味深い (あるいは、検討しなければならない) 点なのですが、ユーザ 企業の社内政治も絡んできて、私が ここで どうこうと説明できる論点ではないので──それぞれの企業には、それぞれの次第があって、しかも、おもて向きの理由は口実にすぎず、ほんとうの理由は幾つもの些細な契機が積み重なっていて、それらの契機が朦朧たる態をなしていて、一つずつ摘み取ることのできないことが多いので──これ以上の記述は止めます。

 [ 3 ] と [ 4 ] が私の興味を惹きました。宣長の観察眼に対して私は賛嘆すると同時に、現代でも同じ現象が起こっていることを私は多々観て来て苦笑しています。後任の部長は、前任の部長が実現したことを継承するのみでは じぶんの業績にならないので、他の やりかた を導入することが多い。もし、前任の長と後任の長とのあいだに社内政治が絡んでいれば、事態は そうとうに ややこしいことになるでしょう──実際、私は、そういう事態のなかに幾度か立たされました。情報 システム・コンサルタント という仕事をしていれば、事業戦略に関与することが多いので、どうしても社内政治の側杖を食います。

 IT 上の キャリア・パス では、ふつう、システム・エンジニア をやってから システム・コンサルタント になるような道すじですが──そして、私も、そういう キャリア・パス を歩いてきたのですが──、私は、50歳を過ぎた頃から、キャリア・パス を 「意図的に」 逆のほうに歩くようにしました。すなわち、コンサルタント を降りて、エンジニア になる、と。その理由は、ユーザ 企業の社内政治に関わりたくないので。私の 50歳頃を振り返ってみれば、T字形 ER手法を TM として再体系化していた頃で、研究のほうに集中したかったので、政治のほうに思考を向けたくなかった。私は 「学者肌」 と言われることが多くて、政治が下手なように思われているようですが (笑)、私は そんな迂闊な人物じゃない。寧ろ、惚けた [ しらばくれた ] 人物です (笑)──「反文芸的断章」 を読んでいただければ、私の その性質を御察しいただけるでしょう。私は、じぶんが関与した企業のなかを詳細に観ています。雇われた エンジニア という境遇上、ユーザ 企業で観たことを言わない (したがって、他言しない) だけです。

 エンジニア を仕事にしている私は、いっぽうで、「文学青年」 です。「文学青年」 の眼で、ユーザ 企業のなかで起こっている 「人間模様 (ひとの ありさま)」 を詳細に観ていて、これほどに面白い劇はないと思っています。そして、私が ユーザ 企業のなかで起こっている 「ありさま」 を観ていて、骨のある人物というのは、社内政治のなかで じぶんのやりたいことを見え見えに演じることのできる人物でしょうね──私は、この文を厭味で綴っているのではなくて、寧ろ賛嘆の気持ちを込めています。そして、そういう人物は、たいがい、出世しています (取締役くらいには登っています)。私にも、そういう性質──「文学青年」 の眼で観れば、「俗」 と思われるような 「見え見えに演じることのできる」 性質──が いくぶんかあることを告白しておきます (笑)。私が それをやらないのは、内気な性質のほうが強いからじゃなくて、TM を作るほうに集中しているからにすぎない。三島由紀夫氏は、作家になりたくて当時の大蔵省 (現、財務省) を辞めましたが、企業に入っても、そうとうな地位に就いたでしょうね。

 ひとが複数集まれば、政治が生まれることは当然でしょうね。そして、それ (政治) は、ギリシア 時代から──政治について詳細に分析できるほどの記述が文献として遺されているという意味で、ギリシア 時代としたのですが──論じられてきて、今も論じられていているというのは、それぞれが それぞれの特殊な次第で起こるからでしょう。「型」 に嵌 (はま) った 「生々しい」 政治などないでしょう (笑)。「生々しい」 政治は、つねに特殊事態です。だから、政治は面白い。ただし、システム・エンジニア の私は── TM を今後も改善し続けたい私は──、「無垢にして抜からず」 という態で止まっていたい。

 
(参考) 「本居宣長集」 (日本の思想 15)、吉川幸次郎 編集、筑摩書房、太田善麿 訳。

 
 (2010年11月 8日)

 

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