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The sword is tried on the anvil.

 

 本居宣長は、「玉くしげ」 のなかで、以下の文を綴っています。(参考)

     (略) ただ家々に伝わっているとおりのことを学習して、それから
     のことは各人の工夫しかないわけであるが、その工夫といっても
     実際にこれを試してみるわけでもないから、結局はみな実際から
     はなれた考えにすぎない。だからその同じ空案という中にも、ただ
     理屈に合うか合わないかばかりを考えないで、とにかく実用になる
     ことを心がけるべきである。そして時代が移り変るについては、
     世の中の情勢や人の気質なども変っていくものであって、昔の法
     もこれに合わせて解釈、理解すべきである。

 さて、上に引用した文を読んだときに、私は、仲間内で互いに賞め合っている集まり (Mutually Admitted Society) を想像しました。モデル 愛好家が集まって、じぶんたちの好きな モデル を論評して賞め合っているという様を想像すると私は鳥肌が立つ。

 モデル の使命は唯一つであって、「実地に役立つ」 ということのほかにないはずです。そうであれば、モデル 愛好家が集まって モデル を云々するのなら、「理論的な検証」 と 「実 データ を使った験証」 が論点になるはずです。それらの論点を外した論評などは、「じぶんの恋人が一番に美しい」 と逆上 (のぼ) せている態と同じでしょう。「惚気 (のろけ) るな」 と言ってやりたい。モデル は、実際に使われるほかに道はないという当然のことを外さなければ宜しい。

 事業上の問題が生じて、ソリューション を考える──しかし、問題が問題として いまだ well-defined されていない状態において、「トータル・ソリューション」 を言い出す小悧巧な連中が現れる。あるいは、逆に、モデル なんて空論さ、われわれが簡単に実施できることは 「事業を じぶんの眼で観る」 ことであって、「流れ図」 だ、ユース・ケース だ、さては クラス 図、「記法」 以上の難しい理屈は、われわれ システム・アナリスト にはいらんョ、と。モデル を難しがるようでは エンジニア の恥ではないか。というのは、──たぶん、そういう連中は、じぶんの仕事の冠にしている アナリシス (analysis) という語の意味を調べることなどしないだろうから──私が ここで その意味を明らかにしておきましょう。その語の意味は、コンピュータ・サイエンス では 「解析」 と同義です。そして、「解析」 という語は、「関係」 に対して適用すれば、離散数学では 「写像 (関数)」 「有向グラフ」 として記述できますが、もし 図を描く行為 (幾何学) において使うのであれば、「作図題の解法」 と同じ考えかたに立っています。そして、「作図題の解法」 は、中学校で習ったはずです。そうであれば、モデル の どこが難しいのだか。

 「モデル は正しい理屈の上に作られた単純な技術の体系である」 という点にこそ その使用価値があるはずです。「妥当な理論」 と 「単純な技術」 を持たないような モデル など有り得ないと思います──しかも、「妥当な理論」 は、モデル の規則を作るひとが負えばいいのであって、モデル を使うひとには理論を習得しなければならない責務はない。

 したがって、モデル 愛好家が集まって モデル を論ずるのであれば、その モデル の 「理論的妥当性」 を問う (あるいは、検証する) べきだし、できうるなら、実 データ を使って その理論的妥当性を験証すべきでしょう。「TM の会」 は、丸六年間 継続してきた モデル 研究会です──会長もいなければ、決められた幹事もいない自主運営の会です [ 私 (佐藤正美) は、会長ではないし、幹事は まいつき 輪番制で決められています ]。「TM の会」 では、つねに、TM に対して 「理論の検証」 「実 データ を使った験証」 をおこなってきました──その具体的な報告は、本 ホームページ の トップページ に記載されている 「『TM の会』 の会員へ」 を御覧下さい。自主運営の 「TM の会」 が丸六年も継続してきたことを私は嬉しく思いますし、今後も継続できることを祈っています。丸六年も継続するというのは、ただの物好きの集まりじゃない。

 今回で 「玉くしげ」 を終わりにします。
 次回から、他の書物を題材にします──だれの著作を題材にするかは、まだ判断していませんが。

 
(参考) 「本居宣長集」 (日本の思想 15)、吉川幸次郎 編集、筑摩書房、太田善麿 訳。

 
 (2010年11月23日)

 

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