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Too clever by half

 

 Bloomsbury Thematic Dictionary of Quotations の セクション academics のなかで、以下の文が私を惹きました。

    It's no use trying to be clever -- we are all clever here;
    just try to be kind -- a little kind.

    F.J. Foakes Jackson (1855-1941) British academic.
    Advice given to a new don at Jesus College Cambridge
    Noted in A.C. Benson's Commonplace Book

 ここで述べられている性質をもった 「賢い」 人たちを私は わんさと観てきました──私自身も、ひょっとしたら、ここで述べられている類に入るかもしれない。「頭はいいが、思いやりがない」 という定番の人物評 (same old critic) を ここで私は検討しようとは思っていないのであって、私が考えてみたい点は、clever (あるいは、smart) という概念です。

 私は、「頭のいい」 ひとが好きです──私が謂う 「頭がいい」 という意味は、ingenious ということ。ingenious は、(clever の同意語ですが、) skilful at inventing という意味です。すなわち、発明工夫の才があること。

 私は、単なる優等生 (willing students) [ すなわち、指導する側にとって御しやすい 「すなおな」 優等生 ] を好きじゃない──というか、嫌いです。膨大な知識を習って、それらを頭のなかに 「整然と」 蓄えていて、直ぐに retrieve できるというような know-it-all を好きじゃない。単なる コピペ [ コピー&ペースト ]・マシーン にすぎない。そういう状態というのは、「頭がいい」 という状態ではない、と私は思う。なぜなら、正しい知識ばかりを蓄えて、眩暈を起こさない状態──それらの知識のあいだで起こるはずの 「対立」 に対して疑問を抱かない状態──というのは、「魯鈍 (あるいは、鈍感)」 ということではないかしら。

 私は他人 (ひと) に対して どうこう言うこと [ 人物評 ] を好きじゃないのですが、私のように 「考える」 こと──哲学・数学の書物を読んで、現実的事態の モデル化規則を作ること──を仕事にしていると、相手の言っていることを計量する癖がついてしまっている。一種の 「職業病」 でしょうね。

 
 (2010年12月 8日)

 

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