このウインドウを閉じる

Advice when most needed is least heeded.

 

 Bloomsbury Thematic Dictionary of Quotations の セクション advice のなかで、以下の文が私を惹きました。

    Advice would be more acceptable if it didn't
    always conflict with our plans.

    Anonymous.

 
    No one wants advice -- only corroboration.

    John Steinbeck (1902-68) US novelist.

 
 上のふたつの引用文を読んで、「そうかもしれないなあ」 と私は思いました。
 私は、じぶんの生活を振り返ってみて──ただし、30歳以後の生活において──、他人 (ひと) に advice をもとめたことが ほとんどないことに気付きました。他人 (ひと) に advice をもとめるほどの深刻な悩みがなかったといえば、それまでなのですが。

 私が 37歳で独立開業したときも、だれに相談することもしなかった──私が退職したとき、家内は出産直前 (初産の 1ヶ月くらい前) だったのですが、「ぼくは会社を辞めるから」 と家内に伝えたのみでした。だれの advice を仰いだ訳でもなかった。私が頑固な性質だから他人 (ひと) の advice を仰がないという訳でもない──ただ、家内に言わせれば、私の性質は、「いったん決めたら、だれがなんと言おうが じぶんの決断を変えない」 そうです。私が他人 (ひと) の advice を仰がない理由は、たとえ advice を もとめたとしても、上に引用した文が述べているように 「じぶんの考えにあう助言しか聴かない (言い換えれば、じぶんの考えにそわない助言を聞き流してしまう)」 ことを私自身が直感的に悟っているからだと思います。そうであれば、他人 (ひと) の advice を もとめることは無意味でしょう。

 では、他人 (ひと) の意見を──それが私の考えと反対意見であっても──聴くような謙虚さを持っていればいいのかもしれないけれど、反対意見を傾聴する態度は謙虚さと無縁だと思います。なぜなら、なにがしかの悩みがあって、その悩みに対面して考えを廻らせていれば、賛否両論の可能性を当然ながら検討しているはずでしょう。もし、それらの可能性を いちぶしか思い浮かばないという状態であれば──逆に言えば、様々な可能態を網羅していないという欠落感を覚えるのであれば──私は、他人 (ひと) の意見をもとめるかもしれない。しかし、それは、advice をもとめている訳じゃないでしょうね。それは、できるかぎり正確な情報をあつめようとする調査に近い。私は、他人 (ひと) の意見を聴いて convinced されることがなかった──私が他人 (ひと) の意見を傾聴するときには、そのひとの意見が私の朧気な着想を見事に彫塑しているとき、すなわち、そのひとの説のなかに じぶんを感じたとき、そして、そのときに限っていたように思います。さきほど、私は、「じぶんの考えにあう助言しか聴かない」 ことを直感的に悟っていると綴りましたが、どちらかといえば、私は できるかぎり、賛否の可能性を検討するほうです──だから、様々な可能性を検討して下した決断に対して、他人 (ひと) の advice をもとめることをしないのかもしれない。

 私は システム・コンサルタント を職業にしているので、ユーザ から advice をもとめられる側に立っています。ただ、私は、「技術的な」 advice をしても、それ以外の advice はしないことにしています。そして、adviser (counsellor) あるいは informant ではなくて、catalyst (化学反応を促進する媒体) として働くことを私の役目としています。catalyst とは、In chemistry, a catalyst is a substance that increases the rate of a chemical reaction, but which does not change its own chemical composition; a technica use (BBC English Dictonary )。私の コンサルタント 像は、adviser (counsellor)/ informant ではなくて、catalyst です──その態度は、30歳代の頃 (独立開業) から一貫してきたつもりです。「技術」 に関する advice であれば、advice をもとめるほうも advice をあたえるほうも、ほとんど ズレ が生じないで情報を確実に やりとりできる。

 しかし、「意思」 とか 「感情」 にかかわる advice になれば、advice を言うためには、相手のこと──そのひとの性質とか、そのひとが置かれている状態など──を そうとう程度に知っていなければならない。しかし、それらを知るために考慮しなければならない変数が多すぎて、私の手には負えない。他人 (ひと) から advice をもとめられても、私は じぶんの考えを述べる危うさ──曖昧な前提のうえに推論する危うさ──を重々 承知しています。そして、引用句辞典のなかから人生訓を ひっぱりだして他人 (ひと) を助言することはたやすいけれど、私は、いかほどに そのひとの悩みを実感できるのか。さらに、私は、他人 (ひと) に助言できるほどの豊富な人生体験をしてきたとも思っていない。

 
 (2011年 2月16日)

 

  このウインドウを閉じる