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Do not get drunk with wine, which will only ruin you; (Ephesians 5-18)

 

 Bloomsbury Thematic Dictionary of Quotations の セクション alcohol のなかで、以下の文が私を惹きました。

    A good drink makes the old young.

    Proverb

 
    He who drinks a little too much drinks much
    too much.

    Proverb

 
 ふたつの引用文をいっしょにして簡単に言ってしまえば、「ほどほどの酒は健康に良い」 (呑みすぎてはいけない) ということでしょうね。酒に関して世間で論じられてきたこと以上のことを私は論じられないし、私は a social drinker (つきあい程度の酒を嗜む) にすぎない。兼好法師や陶淵明や李白 (酒中の仙) を引用して、酒の良さを論ずるつもりはない──ただ、陶淵明の酒は、苦い (孤独な) 酒だったのですが。

 私は、晩酌を習慣にしています── 1週間のうち、5日間は晩酌します。晩酌では、日本酒で、1合 (ときに、2合ほど) を呑んだら、もう止めます。外 (そと) で呑むときは、(日本酒ではなくて、) ビール にしていますが、中 ジョッキー で 2杯を飲めば、もう止めます。日本酒も ビール も、私にとって、そのくらいの量が ほろ酔いになって気持ちがいい。

 つきあいで呑んでいて ほろ酔いで気持ちのいいときに、難しい話──思考しなければならない話──をしたくない。酒の席で、相手が難しい話 (あるいは、仕事の話) をすると、私は ウンザリ します。まして、相手が絡んでくると殴りたくなる。酒を呑みながら、私のことを グダグダ と非難した ヤツ がいたけれど、私は、非難されるために酒を呑みに来た訳じゃない。酒が めっぽう不味くなる。酒は気持ちよく呑みたいですね。

 酒の席で、話題の少ない相手には興ざめします。そういう席では相手の底が見えることも多い。姿勢を崩さなければ見えない真実が実生活 (人生) にはあることを実感させてくれるのが酒なのかもしれない。コミニュケーション できない酒なら一人で晩酌していたほうがいい。

 家にいて、日中、思考をめいっぱい使ったあとで晩酌するのは、私にとって、「一日を終えた」 という 「締め (区切り)」 の儀式なのかもしれない。

 私の家系は、たぶん、「大酒呑み」 の血統です──亡き祖父たちは、目茶苦茶、酒に強かったし、弟も強い。でも、亡き父は、嗜み程度の量しか呑まなかった。父は、そもそも、酒が嫌いだったようです。父系の祖父は、大工で大酒呑みだった。父は晩酌をしなかった。父は、祖父の大酒呑みを観て、酒を嫌っていたのかもしれない。父にとって祖父は反面教師だったのかもしれない。それでも、父は、会社 (仕事) のつきあいの酒は呑んでいました。そして、母系の祖父は漁師で、大酒呑みだった。大工と漁師の血統を継いだ孫たち (私と弟) は、血の気が多い (喧嘩早い) し酒呑みですが、私は、嗜み程度の量で止めることにしています。私は意志の強いほうで、日本酒を呑んでいて、1合で止めると決めたならば、ぴったりと 1合で止める。決して、He who drinks a little too much drinks much too much. にはならない──英語で 「too much」 という表現は、いかなる場合でも、悪い意味です。

 仕事を終えて呑む酒は、無類に美味いと感じます。講師を務めたあとの──終日しゃべったあとの── ビール は、飲用水のなかで最高です。登山のあとの ビール も最高です。そして、ハレ の会には、酒がふさわしい。

 若い人たちに対する助言として、「無礼講」 などという社交辞令は信じないほうがいい──あなたが酒の席で言ったことを上司は しっかりと記憶している (笑)。上司は、あなたほど酔ってはいない。

    偶々 (たまたま) 名酒有れば、夕 (ゆうべ) として飲まざるは無し。
    影 (かげ) を顧みて独り尽くし、忽焉 (たちま) ちにして復 (ま) た
    酔ふ。(陶淵明)

 こういう呑みかたを私は好きじゃないし、そういう呑みかたを私はしない。
 私がかつて (10年くらい前に) 観た 「酒の呑みかた」 で、ほほえましいと感じた光景は、居酒屋の夫婦が仕事を終えて乾杯していた情景です。その店は若い夫婦が営んでいて、私 (と仲間たち) が店の営業時間が終わっても話していたのですが、その夫婦は庖厨を後片付けして、われわれが居のこっているにもかかわらず嫌な顔もしないで、われわれの話が終わるのを待っていてくれた。店が閉まっても われわれが居のこっていることに対して私は申し訳ないと感じて、その夫婦に謝ろうと思って庖厨のほうに眼をやったら、庖厨を掃除して一日の仕事を終えた夫婦は、流し台の前で立ったまま向かいあって、相手の コップ に ビール を たがいに注いで乾杯していました。とても自然な態だった。その夫婦のすがたが私の眼に今も浮かびます。たがいの労働に対する慰労の・感謝の・ささやかな乾杯なのかもしれない。こういう酒は、きっと、豊味でしょうね。

 
 (2011年 3月 8日)

 

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