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Have a horse of your own and you may borrow another's. (Welsh proverb)

 

 Bloomsbury Thematic Dictionary of Quotations の セクション borrowing のなかで、以下の文が私を惹きました。

    The human species, according to the best
    theory I can form of it, is composed of two
    distinct races, the men who borrow, and the
    men who lend.

    Charles Lamb (1775-1834) British essayist.
    Essays of Elia, 'The Two Races of Men'

 
 私は、この原文('The Two Races of Men') を読んでいないので、上に引用した文が いかなる意味で語られたのかを知らない。したがって、本 エッセー では、上に引用した文を一つのアフォリズム (あるいは、「謎々」 [ 謎掛け遊び ]) として読んで、私の頭に想起された観念を綴ってみたいと思います。

 私は、金銭的にも精神的にも、明らかに borrowing 側に属する。貨幣的貸借を除いたとしても、そして、社会的養育 (育児、学校教育)を除いたとしても、学校を卒業して じぶんが社会のなかで生活してゆく途上で、私は borrowing 側に属しています。しかし、そうでないひとは、はたして、存在するのかしら。

 「じぶん探し」 という キャッチフレーズ が一時的に (数年前か?) 流行ったけれど、最近では まるで聞かない。「じぶん探し」 という一人旅を寂しくなって旅行を中断したとでも云うのかしら。それとも、生活上の一つの履修課目として一時 (いっとき) 意識したにすぎないのかしら。

 「生かされている」 という宗教的所懐を ここで論ずるつもりは私には毛頭ない──「生かされている」 という意味は、他人 (ひと) には謂えない [ 伝えきれない ] ほどの絶望的体験をしていなければ、到底、実感できないでしょう。そうでない感謝などは臭味がでるでしょうね。

 私は、じぶんの言説が──延 (ひ) いては、物の見かたが──多数の人たちからの借り物のうえに建てられていることを自覚しています。そして、明らかに 「債務超過」 です。借入が じぶんの資産に転化できていない、私はそれを とても口惜しく思っています。

 個性を活かすために 「他人を真似るな」 と云われることが多いけれど、天才は先人を真似た。モーツァルト は次のように断言しています。

    今はもうどんな音楽でも真似出来る。

 それだから天才たる所以でしょうが、その天才は、模倣と温習 (さらい) を即興の源にしていました。われわれ凡人は、borrowing (真似) にまみれていても致しかたないのではないかしら。致しかたないのであれば、その泥沼のなかで一輪の花が咲くように ちから を尽くしたいですね。

 
 (2011年 8月 1日)

 

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