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I hate and love. You ask, perhaps, how that can be? (Catullus, poems)

 

 Bloomsbury Thematic Dictionary of Quotations セクション conflict のなかで、以下の文が私を惹きました。

    He who lives by the sword dies by the sword.

    Proverb

 
    Without Contraries is no progression.
    Attraction and Repulsion, Reason and
    Energy, Love and Hate, are necessary to
    Human existence.

    William Blake (1757-1827) British poet.
    The Marriage of Heaven and Hell, 'The argument'

 
 一番目の引用文は、「戦 (いくさ) を好む人物の果ては戦死しかない」 というふうに 「戒め」 として読めるし、「自分の ちから (生存) を証明するために、次々に相手を倒していれば、いずれ、誰かに倒される」 という 「覚悟」 としても読めるでしょう。いずれの意味で読むかは、その人の人生観しだいでしょうね。私は、自分の仕事を顧みて、「覚悟」 として読みました。いったん刀 (かたな) を抜いてしまうと元に収める頃あいが難しい──そういう潮時を見計らって戦いにでるのが政治家なのでしょうが、私のように技術しか寄る辺のない エンジニア は、機宜を観るのが下手くそで、自分の技術を振り回す浅才しかない。そういう 自分を自分でも阿房だと思っているのですが、「組織」 という後ろ盾のない エンジニア には、そういう生きかたしかできなかった。社会的適応性の弱いエンジニアが──文学青年的気質の強い私は、まさにそうなのですが──、社会の中で存在を身証するのであれば、そういう生きかたを選ぶしかなかった。しかし、そういう道を選んだ エンジニア は、自分の持っている技術で絶えると言っていいかもしれない。いずれ まともな倒れかたをしないと覚悟していても、そして いくつも怪我を負っても、私は痩せ我慢してでも出来る限り立ち続けていたい。

 二番目の引用文について、二元論だの弁証法だのという惚けた概括を持ちだすつもりは私には更々ない。敢えて持ちだすのなら、「矛盾の中で翻弄される」 という連想のほうが マシ でしょう。この引用文を読んだとき、私は まさに 「矛盾の中で翻弄される」 という観念が浮かびました。「相手に強烈な嫌悪感を覚えながらも惹かれる」 とか 「論理の中に収めきれない所見の溢れる生命を感じる」 とか、様々な色が混ざった穢らしい色彩の質量 (マツス)、それが 「人間性 (人間の実存)」 ではないかしら。「(人間関係の中で) 相手を見抜く ちから を養う」 などという脳天気な (foolhardy) ミーハー 本は八卦本と同じでしょうね、「迷ひをば意念のなせる業 (わざ) 成 (なれ) ど、教ゆる者も意念なりけり」(*) と思っていれば宜しいのではないかしら。人間ほど不気味な生き物はいないのではないかしら、社会的規約を離れたら何をしでかすかわからない。そして、われわれは社会的規約に従って振る舞っていても、たがいの真意はわからない。しかも、自分ですら自身がわからない (掴みあぐねている)。しかし、わからないから面白いのではないかしら。

 プロジェクト の中で起こる トラブル の多くは竟 (つい) に人間関係に帰着するというふうに或る SE が言っていたが、惚けた事を云っている。複数の人間が関与していて人間関係に帰着しない問題など存するはずもない。人間は生き物であるという同語反復にすぎない。では、その人間関係の トラブル に気づいて、それを円滑にする人間関係論的な汎用 ソリューション を示すことができるのか──できるはずもない。人間関係の正規な式など立てられるはずもないのだから。

 「組織」 が立てた目標を確実に実現するのであれば、軍隊編成が導入している 「命令」 系統を プロジェクト に導入するしかないでしょう。そして、そういう 「命令」 系統を導入すれば、SE たちは反抗するでしょうね──「われわれは 『考える』 ことを仕事にしている プロフェッショナル な集まりだ、軍隊組織の rank and file じゃない」 と (笑)。しかも、われわれは、職責上で 「命令」 を守っても、かならずしも、納得していない事も多い。戦場では、背後から撃たれることがあるということも知っていたほうがいいでしょうね。そして、軍隊編成を組めないのであれば、竟には 「強い リーダーシップ」 を望んで論ずる、と (笑)。システム 作りの プロジェクト が日本中に幾つ存するのか想像できなけれど、リーダーシップ を論ずるならば、それらの プロジェクト・リーダ の全員が東郷平八郎氏や コリン・パウエル 氏のような性質を持っている (あるいは、持つことができる) と考えるほうが常軌を逸しているでしょう。

 ちなみに、内閣の支持率に関する世論調査では、「支持する」 理由として、「他の内閣に較べて良い (マシ ということか?)」 とか 「人柄が良い」 というのが最上位に選ばれて、「支持しない」 理由として、「リーダーシップ がない」 とか 「政策に期待できない」 というのが最上位に選ばれるのがいつものこと (same old reasons)。この世論調査で列挙されている理由は、loading questions ぽいと私は感じているのですが、いずれにしても、「リーダーシップ がない」 という判断が最上位に ランク されるというのは、いかなる不満感の顕れなのかしら。この不満感が生まれる理由は、たぶん、じぶんたちの望んでいる期限の以内で社会制度が希 (ねが) っていた出来栄えになっていないという事に存するのではないかしら。しかしながら、Tall な (階数の多い) 組織編成を組んで、かつ、連帯責任 (pass the buck nowhere?) を暗黙の前提にしている組織では 「強い リーダーシップ」 を期待するほうが そもそも的外れではないかしら。「組織」 にも集合的性質としての character は観られるでしょう。リーダ に対して立行司の役を負わせていながら、リーダーシップ を期待するほうが非常識ではないか。

 Tall な組織編成が悪い訳じゃない──軍隊には幾つの階級が存しているかを想像して下さい。リーダ を製造できると考える前提が非常識だと私は言いたいのです。もし、リーダ を製造できるのであれば、リーダーシップ 論を綴っている人が その論のとおりに自分を鍛えて リーダ になればいいではないか。リーダ は ひとつの function じゃない──リーダ が生まれるというのは一つの事件なのだと思う。そして、そういう出来事は、そうたびたびには起こらない。われわれは 10年後にも リーダーシップ 論を綴っているでしょうね、きっと。

 
(*) 「ぬれほとけ」、日本思想大系 60、岩波書店 「近世色道論」収録

 
 (2012年 1月 1日)

 

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