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I never travel without my diary. (Oscar Wilde)

 

 Bloomsbury Thematic Dictionary of Quotations セクション diaries のなかで、以下の文が私を惹きました。

    Let diaries, therefore, be brought in use.

    Francis Bacon (1561-1626) English philosopher.
    Essays, 'Of Travel'

 
    With the publication of his Private Papers in
    1952, he committed suicide 25 years after his
    death.

    Lord Beaverbrock (1879-1964) British newspaper owner
    and politician.
    Referring to Earl Haig
    Men and power

 
    I do not keep a diary. Never have. To write
    a diary every day is like returning to one's
    own vomit.

    Enoch Powell (1912- ) British politician.
    Sunday Times, 6 Nov 1977

 
 「日記」 関する私の意見は、かつて、「佐藤正美の問わず語り」 で綴っているので、それを読んでいただければ幸いです

 一番目の引用文の趣旨は、「日記」 を 「省察録」 として綴ったほうがいいという事でしょうね──即ち、「日記」 として、自分の考え (意見) を綴って置けば、後々、自分の考えを見直す (かつての意見を校正して調えたり、考えかたの変遷を眺める) 事ができる、と。そういう 「日記」 を綴っていた思想家は多い様です──私が尊敬する [ 私の考えかたの手本としている ] ヴァレリー 氏や ウィトゲンシュタイン 氏も、そういう 「日記」 (膨大な冊数の ノート) を遺しています (尤も、ウィトゲンシュタイン 氏は、亡くなる時には、それらを焼却してほしいと思っていたそうですが)。私も若い頃には、そういう 「日記」 を綴っていましたが、年をとるにつれて次第に 「日記」 の中身が日常生活の備忘記録に変わっていって、20年くらい前からは、その備忘記録を英文で綴っています。現代では、Twitter (および Facebook) を使って、自分の考えを記録すると同時に発信 [ 他人 (ひと) に読んでもらう事 ] が出来る様になったので、Twitter・Facebook を 「日記」 の一種として見做 (みな) せば、「日記」 を綴っている人数は膨大な数ですね。しかし、公に発信するとなれば、「日記」 の中身は、本音を抑えている事が多いでしょうね (笑)──そう言う私も公に発信したい私見だけに限って Twitter でつぶやいています。

 「反文芸的断章」 を本 ホームページ で 2004年 8月16日から綴っていますが (私が 51才の頃に綴りはじめましたが)、2006年10月23日に至るまでの殆どの エッセー は、実は、私が 20才代・30才代の頃に 「日記」 として綴っていた文を アップロード したのです。それらの文を読み返してみれば、私は青年期の頃に較べて考えかたが さほど進歩した訳じゃない事がわかる (苦笑)。そして、2012年の エッセー と読み比べてみれば、(考えかたは さほど変わっていないけれど、) 文体が大きく変わった事がわかる。文体が変わったという事は、考えかたも変わっているはずなのですが、それは微細な違いであって、きっと、若い頃に較べて物事を丁寧に観る様になったのかもしれない。

 二番目・三番目の引用文にも私は共感します──だから、私が死ぬ時には 「日記」 を焼却します。どうせ他人 (ひと) が読んだら困惑する様な中身も綴られているので。「日記」 を綴る道具として、若い頃には ワープロ 専用機 (「書院」) を使っていて、30才代の頃から (今に至るまで) パソコン を使っています。だから、文の フォーマット は ハードディスク の中に .txt で格納されていので、余命がわかった時には、ハードディスク を フォーマット して塩水に浸して読めない様にしてしまおうと考えています。ただ、事故等で急に亡くなれば、それができない。「日記」 というのは厄介な代物ですね──自分の歩みを記録して置きたいけれど、他人には読まれたくないし、、、。

 ちなみに、Twitter (@satou_masami) で綴っている文は、先ず ノート に手書きで綴って、それから パソコン に入力しています。二重手間の様に思われるかもしれないのですが、あれらの文を パソコン の キーボード で忽ち打鍵して綴るのは難しい。あの文体は、(小林秀雄氏の文体を手本にしていますが、) 手書きでしか表す事のできない文体だと思います。勿論、140字以内という制限の下で綴るので、ああいう文体にしているのであって、あの文体で書物を綴ろうと私は思っていない [ 小林秀雄氏は、ああいう文体で書物を綴っていますが ]。エンジニア の書物が ああいう文体で綴られていたら読み手も疲れるでしょうし、書いている私も集中力が続かない (笑)──小林秀雄氏の天才を以てしてできる技芸です。

 文体では、キーボード 入力か手書きか は、微妙に影響していると感じています。文具に詳しい人であれば、たぶん、ボールペン、万年筆あるいは毛筆では、文体に微妙な違いが現れる事を感じているかもしれないですね。(「実用性の濃い文」 を除けば、) 個性の感じられない文を読むのを私は退屈です。「日記 (備忘記録ではなくて 『省察録』)」 や手紙文では、文体を意識したいですね。自分の身についた 「主題」 を正確に述べれば文体が現れるのですが、徒 (いたずら) に文体を凝ると文が空々しくなるので、個性的であるためには、まいにち文を綴って、表現の技術を体得するしかないでしょう。そして、そのためには、「日記」 が役立つ。

 かつて綴った文を後日に読み返して恥ずかしくなっても書き替えや削除をしない事、この点では小林秀雄氏は 「ルール 違反」 をやっています──彼は一旦出版した文に改訂を施しています。彼の様な職業的作家 (しかも、達人) に対して私の様な シロート がどうこう言うのは僭越になるでしょうが、それでも、以前に公にした文を、もし納得がいかなくなったら改めて書き直すか絶版にすべきだと思います。自分の考えを数十年に亘 (わた) って綴り続けていれば、数十年のあいだには考えかたも変わるし文体も変わるので、かつて綴った文を厭になる事は多々起こるのですが、その事こそが、「日記」 としての記録であるのではないかしら。私は、拙著 「黒本」 の文体を今では読み返したくないほどに嫌悪感を覚えますが、「黒本」 が現存するからこそ 「論考」 「赤本」 「いざない」 と対比して、私の モデル 観を追跡できる [ ただし、「黒本」 を絶版にしました ]。過去に綴った文は、喩えれば空蝉の様なもので、抜け殻など気にしないで過去に置いて来ればいい。抜け殻を懐かしむのは、世を去る間際で充分でしょう。

 
 (2012年 9月 1日)

 

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