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A faith which does not doubt is a dead faith. (Miguel De Unamuno)

 

 Bloomsbury Thematic Dictionary of Quotations セクション doubt のなかで、以下の文が私を惹きました。

    If a man will begin with certainties, he shall
    end in doubt, but if he will be content to
    begin with doubts, he shall end in certainties.

    Francis Bacon (1561-1626) English philosopher.
    The Advancement of Learning, Bk. T Ch. 5

 
 The Advancement of Learning は、「学問の進歩」 という翻訳名で岩波文庫に収録されていました。ただし、私は F. ベーコン の著作を 一冊も [ 原書も翻訳書も ] 読んでいないので、その思想を全然知らない。「学問の進歩」 を読んだ人なら、上に引用した文がどのような文脈の中で綴られているのかを把握しているので、その意味を確実に掴む事ができているでしょうが、私は、「学問の進歩」 を読んでいないので、この引用文を著作の文脈から切り離して一つの アフォリズム として読んでみます。F. ベーコン の思想については、一応、「岩波 哲学・思想 事典」 (と ウェブ) で調べてみたのですが、哲学上の現代的 「評価」 (哲学史上の位置付け) を知っただけであって、詳細な事は一つも知らない。したがって、この引用文そのものの意味を説明するのではなくて、それを読んで浮かんだ [ 触発された ] 私の所思を述べてみます。

 小林秀雄氏は、次の文を綴っています (「批評家失格 T」)──

    「犬も歩けば棒にあたるそうだ」 「そりゃあそうでしょうともね、
    あたりますよ、そりゃあ」 と彼は答えた。ここにも批評の困難
    がある。

 我々が持っている 「概念」 (あるいは、知識) の殆どは、マスコミ の報道を視聴して、あるいは書物を読んで、あるいは 他人 (ひと) から伝え聞いて組成されているのではないかしら──そして、それらは、「簡約な (簡明な?)」 真理らしきものとして記憶されているのではないかしら [ 偽なる情報を真なるものというふうに錯覚して覚えている状態であっても、本人にしてみれば正しい情報として記憶しているのでしょうね ]。そして、現実的事態に対して、「現実」 を直に観ないで、すでに獲得している情報 (観念) を以て判断を下すという事を我々は当然の様にやっているでしょう──というのは、生活の中で起こる 「すべての」 事態に関して一々集中して考えるという事はできないので、私たちは事態の重きに応じて経験を制限している──考える必要のないものを考えない。「習慣」 というのは、その典型例でしょうね──反復的行為に対して、一々考えないで定めた手続きに従えさえすれば効率的に事を完了できる。それはそれで当然の対応なのだけれど、うっかりしていると、「観念」 のほうが (「現実」 に対して) 先走る事が起こる──「犬も歩けば棒にあたる」 という事を初めて言った人物は天才だけれど、その評語を人生訓として [ まるで定則であるかの如くに ] 覚え込んで、「そりゃあそうさ、人生なんてそんなものさ (Such is life)」 などと口走る人がいれば その人物の知性 (I-know-it-all という不遜な態度) を私は疑いたくなる。

 我々が確実に知っている事とは、──私は哲学論を述べるつもりはないのであって、我々は (或る) 物事を知っていると思い込んだら、それに関して考える事を もう止めてしまうでしょう、そして知ったつもりになる。私は、その危険性を 仕事上 幾度も感じました──「キー」 「実体 (entity)」 「性質」 「多重継承」 等の観念は、うっかりするとわかっているつもりになるのですが、モデル 技術を実際に作ろうとすれば、それらに躓 (つまず) く筈です、さらに 「通論 (通説)」 というものさえ怪しい [ suspicion じゃない、doubt です ] と考えざるを得なくなる。そして、疑って、疑って、疑った末に確しかな実感とは、「『論理』 に従った構成法」 しかない、と。現実的事態を知るというのは、その構成条件を知るという事と同義です。一つの理論を作る際に、「前提」 と 「視点」 を選ぶ事は自由ですが、どんな天才にも、「論理」 を破る自由さはない。一つの命題に関して、真偽という単純な たった一つの判断を下すためには、膨大な証明が要 (い) る──その手続き (アルゴリズム) が 「考える」 という行為の最高度の純形でしょう。日常生活では、これほどの証明法は不用ですが、それでも、「意見 (主張) と その証明」 という論法は、「情報」 の真たる事を明らかにする手続きです。そして、(数学の証明ほどに厳正でない、言い替えれば、多数の人たちの同意を獲得しなければならない様な蓋然的性質の) 意見は、厄介な事には、証明の他にも感情も多大に関与して、その証明が都合の良い様に 「解釈」 されて、意見 (結論) のみが一人歩きする [ 伝搬してゆく ] 現象が多い──そして、本 エッセー の振り出しに戻る事になる (苦笑)。

 
 (2012年10月23日)

 

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