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We abuse land because we regard it as a commodity belonging to us. (Aldo Leopold)

 

 Bloomsbury Thematic Dictionary of Quotations セクション ecology のなかで、以下の文が私を惹きました。

    We are wealthy and wasteful but this can't go
    on. If we don't eat dog biscuites, we could
    end up eating our dog instead.

    Magnus Pyke (1908- ) British scientist, television
    personality, and writer.
    The Observer, 'Saying of the Week', 12 Jan 1975

 
    Had we gone the way of France and got 60
    per cent of our electricity from nuclear
    power, we should not have environmental
    problems.

    Margaret Thatcher (1925- ) British politician and prime
    minister.
    Speech, Oct 1988

 
 引用文の一番目で述べられている We は、たぶん、the British people の事なのでしょう。そして、wealthy and wasteful である事は続かない事を警告しています。If we don't eat dog biscuites,... という文の意味は、wasteful を続けていれば wealthy でいられなくなるという比喩なのでしょうね。この文だけを読んでも、私には意味 (真意) がわからない。当時の The Observer を読めばいいのですが、そこまで手間暇を掛けて考えるつもりは私にはないので、wasteful に対する警告として読んで period を打ちました。その程度の事なら常識さえあれば取り立てて他人 (ひと) から忠告される事でもないでしょう。私がこの文を読んで気になった事は、現代社会の豊饒症候群です。

 たとえば、食品を纏 (まと) め買いして腐らない様に冷蔵庫の中で保存していたにもかかわらず、「賞味期限」 (use-by date) 切れで捨てて了うという奇怪な光景です──生産者は商品の値段を安くするために多量生産して、多量生産された商品を パック (数個の袋づめ) にして売るのでしょうし、消費者は パック で買うのですが食べきれないで捨てて了うという 「贅沢な消費」 現象が奇態ではなくなっているのではないかしら。

 息子 (次男) は コンビニ で アルバイト しているので、時々、当日で賞味期限 (sell-by date) の切れる商品を引き取ってくるのですが、それらを冷蔵庫に入れたままにしている事がある──私が、それらを翌日か翌々日に食べる 「残飯処分係」 をやっています (笑、そして苦笑)。食品を冷蔵庫に仕舞って置いて腐らせるというのは、私には我慢ならない。長男は防衛大学校で寮生活を送っているのですが、休日には食事として レトルト 食品や インスタント 食品が配給されるそうで、彼にとってそれらの食品は不味いらしく、(入校した当初は食していたのですが、最近では食べないで) 拙宅に 「大きな 段ボール 箱一杯にして」 送って来きますw──彼に限らず同部屋の同期生たちはそうしているらしい。レトルト 食品や インスタント 食品は 「賞味期限」 が長いので、私は、それらを一ヶ月ほどの間で晩酌の後に食するか、夜勤の時の夜食としていて、家計には助かっています。私は半農半漁の村で育ったので、食べ物を捨てる (あるいは、食べきれないほど注文して食べ残す) という事に対して罪悪感を強烈に覚えます──私が ecology を考えて信念を持って行動しているという事ではなくて、子ども時代に育った半農半漁の村での風習が染み付いているというだけの事ですが、食べ物を捨てる事には 「生理的な」 嫌悪感を覚えます。

 引用文の二番目は、3.11震災の後で読めば、色々と考えさせられる文ですね。「原発の是非」 を本 エッセー で論ずるつもりはないのですが──是非を論じている専門家たちの意見は、どちらの側にも納得できる所見があって、私には是非を判断しにくいというのが正直な感想ですが──、日本の中にこれほど数多い原発があったという事を私は 3.11震災の後で初めて知った次第です。電力について我々が一つだけ実感している事は、原発のほとんどが停止している状態にあって、電力不足──たとえば、blackout (停電)──が起こらないで生活できているという事でしょう。電力不足が起こらない様にするために、原発の代わりに火力発電所が稼働しているそうですが、燃料費が嵩んで電力料の値上げが避けられないとのことで、電力料の値上げは製造業では製造 コスト に跳ね返って (特に、中小企業では) 利益が出ない状態に陥るという事が報道されていますね。

 民主党政権は原発を 2030年までに廃絶する計画を打ち出しましたが (2012年 9月)、内閣で承認されなかった (同月)。2012年12月の選挙で政権を奪回した自民党は、原発を今後どうするのかしら。2012年12月の選挙では、原発は大きな論点にならなかった──原発の廃絶を謳った 「第三極 (the third force)」 は期待の割には伸び悩んだ。マスコミ が使う 「民意」 という概念を私は とても怪訝に思っています。3.11震災が起こるまで、国民のほとんどは電力が如何に生産されていたかを気にしてはいなかったでしょう。そして、あれほどの壮絶な惨事 (ecological disaster) が起こって初めて原発と向きあう事になって、今後どういうふうに対応すればいいのかを戸惑っているのが実態ではないかしら──私も戸惑っている一人です。

 原子力の関連法規と原発訴訟の資料は、ウェブ で探せば入手できるので、私も読んでみたのですが、原子力 エネルギー は完全な管理下 で制御できる (within the control of) という条件が満たされれば──これは原発に限らず、あらゆる技術について言える事ではないか !? ──、原発そのものは 「原子力基本法」 を中核にして原子力 エネルギー を活用する前提で建設されて来たと判断していいでしょうね。原発訴訟──たとえば、伊方原発訴訟、もんじゅ訴訟、浜岡原発訴訟──では、原告が敗訴しています [ 勝訴した判例はない ]。原発について是非を考えるには、専門家たちの所見 (勿論、賛否両論) と訴訟の判決文を自分の頭で直に [ critical に ] 読む他にないでしょうね。自分自身が陪審員に任命されたつもりで審理するしかない。そして、もし陪審員が 12名任命されたら、12人の審理は hung jury になる可能性が高いのではないか。
 原発の是非について、私自身は 「心情的には」 反対なのですが──しかるべき人たち (専門家) に任せて置けばいいとは考えていないのですが──、現実的に判断しなければならない境遇にいない [ 追い込まれていない ] ので、幾ら考えても堂々巡り (yes and no) になってしまう (苦笑)。

 
 (2013年 1月23日)

 

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