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The unfinished is nothing. (Henri Frederic Amiel)

 

 Bloomsbury Thematic Dictionary of Quotations セクション ending のなかで、以下の文が私を惹きました。

    All good things must come to an end.

    Proverb.

 
    The bright day is done,
    And we are for the dark.

    William Shakespeare (1564-1616) English dramatist.
    Antony and Cleopatra, V:2

 
 私くらいの年令 (還暦) になると、上に引用した文を 「老い」 を重ねて読むのではないかしら。私の人生が果たして good thing だったか、あるいは bright day があったか、と問われれば、口籠もるしかないですが、それでも肉体的活力が喪われていく事を否応でも意識せざるを得ない。

    花の色は うつりにけりな
    いたづらに わが身世にふる ながめせしまに

 絶世の美女と称えられた小野小町の歌です。彼女は、六歌仙の一人と賞された才女です。「艶道通鑑」 に、源某氏が年老いた小町を相手にしなかった話が記載されています──「廃 (すた) りもの拾 (ひろ) ふ合点 (がてん) ならねば、余方 (よかた) に譲 (ゆず) りてあしらはず」、と。この話しの真偽のほどは私には わからないのですが、 老いの悲劇を語っていて、さながら実話のように聞こえる。「能」 の四番目に 「卒都婆小町」 (観阿弥 作) という作品があるのですが、年老いた乞食姿の小町が狂乱する。小町が才色兼備だからこそ、老いが際立ち取り沙汰されるのでしょう。凡人の私なんかでは話しにならない。それでも、凡人は凡人なりに誰でも老いと向きあわなければならないのは避けられない。

 「いのちながければ恥おほし。ながくとも四十にたらぬほどにて死なむこそ、めやすかるべけれ」 (徒然草) という事を、老いを実感できない若い頃には、人生を覚った様に私は口真似していました。青年にあって観れば人生が無限に長い未来に思われるけれど、老人になって観ればそれは非常に短い過去であった様に思う。私は、還暦近くになった今でも、30才の頃を生々しく思い起こす事ができる。「老いて智の若き時にまさる事、若くして貌 (かたち) の老いたるにまされる如し」 (徒然草)、しかし どういうふうに言おうが、不惑を越えれば、活力は衰えてゆく。

 一人の人生を眺めれば、それは歩んできた一つの道程だけれど、社会から観れば、その道程に直角に交わる或る一時点の現象にすぎないので、社会の中で関心を払われるべきは青年の生活であって、老人の生活ではないでしょう。理由は簡単です、老いるという事は生産力が減退し未来がないからでしょうね。還暦を迎えた人が 「60才は、まだ若い」 と言っても、誰一人として腹の中では納得していないのではないか、自分自身が老いを感じて──老眼になったとか、物覚えが悪くなったとか──、自分自身を鼓舞するために言っているのではないか、40才の頃と身心が同じであると思っているならば錯覚でしょう。長生きしたいのだけれど、年をとりたくないという虫の良さが我々にはあるのでしょうね。若作りしようとは毛頭思わないけれども、「若く見えるね」 と友人から御世辞を言われた時には、老けてきたなと思われているのだと思ったほうがいい。しかし、老いている事が悲劇ではなくて、未だ若いと思い込んでいる事が悲劇 (喜劇?) ではないか。私は、老いが喪った活力を若い人たちの中に窺う事をしたくないし、若い頃の活力の残り香を味わう事はしたくない。今日は今日だけの事を考えるに止めて、そして過去を振り返らない事、それが老いに堪える工夫なのかもしれない。

 
 (2013年 3月 8日)

 

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