このウインドウを閉じる

Friends are born, not made. (Henry Adams)

 

 Bloomsbury Thematic Dictionary of Quotations セクション friendship のなかで、次の文が私を惹きました。

    Friendship is unnecessarh, like philosophy,
    like art.... It has no survival value; rather
    it is one of those things that give value to
    survival.

    C. S. Lewis (1898-1963) British academic and writer.
    The Four Loves, Friendship

 
 今回は、とても語りにくい テーマ ですね、、、私の記憶を振り返って哀惜の念にたえない テーマ です。私は 40才をすぎてから、人前で泣いた事が 4回ほどある──そのうちの 1つが親友 T.H. さんの死去に係わっている、、、。T.H. さんは、血液の癌で 40才くらいで この世を去りました。私の大学一年生の頃からの親友でした。二人は大学の同窓生ですが、私は一浪していて T.H. さんは早生まれだったので、二人の年齢は 2つ離れていました。

 大学受験のために生まれてはじめて上京して、大学校舎の大きさや敷地の広さに魂消 (たまげ) ました──ひとつの町のように当時は感じました。完璧な 「御上りさん」 状態でしたw。私の当時の精神状態は失意の ドン 底でした──「文学青年」 だった私は、文学をやりたかったのですが、文学部を落ちて商学部に入学しました。当時、「金銭など汚い」 と本気で思っていた 「文学青年」 が簿記会計をやるのだから面白い訳がない。学生運動が下火になった頃でしたが、それでも大学は中核派・革 マル 派の抗争や内 ゲバ で騒然としていて、幸いにも (と言っておきますが)、「ロックアウト」 が日常茶飯事に起こって講義は たびたび 休講になって、私は三畳一間の下宿に閉じこもって書物 (文学、哲学) を 一日中 読んでいました。

 T.H. さんと初めて会ったのは、入学直後の オリエンテーション のために新入生全員が箱根で合宿したときでした。オリエンテーション の合宿では、同じ クラス の学生たちが 5人づつ相部屋でした。私は T.H. さんと同部屋でした。田舎から上京した私には、T.H. さんが都会育ちの垢抜けた青年に見えました (実際、彼は横浜の実家から通学していました)。二人とも人見知りの性質でしたが、同部屋になったので、互いになんとなく会話をしました。オリエンテーション の後、講義に出席するようになって、T.H. さんとは いくつか同じ講義を聴講していたので、次第に親しく会話するようになった。そして、講義の後で、大学近くの 「シーズン」 という喫茶店で二人して何時間も居座って しゃべる日々が多かった。私が主に文学論を しゃべって、T.H. さんが聞き役でした。私たちは 「シーズン」 のホットドック・セット (250円、ホットドック、コーヒー と サラダ の小鉢) を注文することが多かった。奨学金と親の仕送りで生活していた私は、一日の生活費を 500円に抑えなければならなかったので、この出費は痛かった。

 私は講義がない日には、一日中 下宿に閉じこもって読書するか、あるいは大学周辺の古本屋 (当時は現在に比べて店数が多かった) を巡って古本を漁るかしていたのですが、T.H. さんが講義のある日には講義が終わってから私の下宿に来て私を 「シーズン」 に誘った (当時は、勿論、スマホ がない時代なので、スマホ で連絡できないw)。彼は私の部屋には入らなかった、下宿の玄関口で大家さんに頼んで私を呼び出した──私の部屋は三畳だったので (当時の下宿の多くはその広さが普通だった)、「部屋が狭くて、入るのは嫌だ」 と彼は言っていました。

 私は大学から徒歩 5分くらいの所に下宿していました──民家の二階が下宿部屋 (5部屋、共同便所、風呂なし、賄いなし) で、一階が大家さんの住居でした。私の部屋は日当たりが悪かった。そして、私は昼夜逆転の生活をしていました。当然、そういう生活が身体にいい訳がない。或る日、目眩がして起きられなかった。その日の午後になんとか起きられるようになって目眩も止んだので歩いて近所の診療所に行きました──自律神経失調症という診断でした。下宿に戻って安静にしていたら、T.H. さんが私を訪ねてきました。その日 私は講義を欠席したのですが、彼はいつも通りに私を 「シーズン」 に誘いに来た。そして、彼は大家さんから私の病状を聞きつけて、部屋まで来てくれた──三畳の部屋に入るのは嫌だと言っていたのに。私の体調を心配した彼は、私が彼の家に暫く滞在することを勧めた。

 彼の勧めに応じて、私は彼の家に二週間ほど滞在しました。この二週間は、彼と つねに いっしょに居ました。二人とも、夜 (明けがた) の 5:00頃まで、彼の部屋で歌を唄ったり (「いちご白書をもういちど」「神田川」「一人芝居」などを私が唄って T.H. さんが ギター で伴奏してくれ、それを テープレコーダ に録音したりして)、歌い飽きたら色々な事をしゃべっていました──当時、私は遠距離恋愛をしていたので、ほとんど、その話でした。そして、二人は昼頃に起きる、という生活でした。二人が起きたら、彼のお母さんが朝食 (昼食?) を作ってくれました。夕食も下宿生活の外食では味わうことのできない家庭料理でした。私の服・下着などの洗濯も彼のお母さんがやってくれました。私は、暫く忘れていた 「家庭」 生活を しみじみと味わいました。

 大学四年生になって就職活動がはじまった──その前の年まで四月が就活の開始だったのですが、「オイルショック」 の影響をうけて、我々の時には八月が開始になった。私 (二人兄弟の長男) は、地元に帰る約束で東京の大学に出してもらったので、地元の銀行から内定を取りつけました (そして、彼女と結婚することを考えていました)。私の本心は、文学をやりたかったのですが、貧乏になる覚悟はなかったので、不本意ながら就活した次第です。しかし、「文学青年」 気質の私は、就職することが段々と怖くなって、しばらくして内定を取り消しました。簿記会計が嫌いだったのに妥協策として大学院 (商学研究科会計専攻) に逃げ込んだ。内定を取り消した頃には、大学院への推薦も締め切られていたので、受験しました。学生は就活に忙しく、教室には、ほとんど学生がいない状態でした。教室にいる人たちは、すでに内定をもらっている人たちか、大学院への進路が決まっている (推薦の) 人たちでした。私は、内定を取り消した (就職もしない)、大学院も受験しなければならない──合格するかどうかもわからない──宙ぶらりんの状態でした。そして、地元にも帰らない、就職もしないと決めた私は、彼女と別れました。

 T.H. さんは、音楽が好きだったので、音楽関係の会社数社へ就活していましたが、採用されなかった (内定をもらえなかった)。彼は就職浪人することを決めた──彼は、わざと単位履修が満たないようにして、大学に在籍したまま翌年に音楽関係の会社の就活を再挑戦することにした。私は大学院に在籍して彼は大学に在籍していたのですが、私が下宿を引っ越して練馬区桜台に移り住んだので、彼とは以前ほどに会う機会がなくなった。それでも、たまに会っていました。翌年、彼は音楽関係の会社をいくつか再挑戦したのですが、いずれも最終面接までいって採用されなかった。彼は財務分析の会社に就職しました。私は、博士課程までいくつもりでしたが、事情があって修士課程を修了して大学院を出て、一年間の無職のあと色々な職を転々としていました。T.H. さんと会う機会が ほとんどなくなったのですが、それでも、年末には二人とも会うことにしていて、彼の行き付けの店 (渋谷にある店) で呑みながら語りあうということが、まいとし、続いていました。彼が体調不良で 一年間 会社を休んでいることを彼の口から直截に聞いたのは後々のことでした。

 まいとし恒例の年末の会合を決めるために 12月初旬に彼に電話したら、「来週、入院するので、今年は会えない、、、」 とのことでした。「あと一ヶ月くらいで ドナー が見つからなければ、死ぬしかなかったのだけれど、幸い、ドナー が見つかって手術することになった」 と。我々は、四時間ほど電話で話した。年が明けて早々、彼のお母さんから私に電話があった──「T が亡くなりました」 と。私は絶句した。そして、泣いた。「数週間前、あれほど元気だったのに、、、」 と私が やっと言ったら、「私も手術後は直截に T と話はしていないの、T は ICU に運ばれて、亡くなる前に ICU の電話越しに二言三言を交わしただけ、、、」 とお母さんがおっしゃった。そして、「ドナー の白血球が T の白血球よりも強かったそうなの」 と。私は泣きながら、お母さんの話を聞いていた。

 私は彼の葬儀に参列しました。彼のお母さんは私を 「親族」 席に座らせました。その他のことは覚えていない、悲しみだけが強かった。後日、T.H. さんの形見をもらいました──お母さんが私を家に呼んで、「T の部屋を整理しているので、T の思い出に何か貰ってやってください」 と。私は、T.H. さんの好きだった音楽 CD 数枚と、セーター をもらいました。

 我が家の リビング・ルーム に設置されている音楽 CD 棚の上に、T.H. さんの遺影が置いてあります。遺影は若い頃 (30才代) の T.H. さんです。私は 今 64才です。T.H. さんの遺影を見るたびに、我々がすごした青春時代を思い出します。友情というのは、その渦中にいるときには、その価値を気付かないのかもしれない。思い起こせば、私の青春時代には、T.H. さんが つねに側 (そば) にいた。

 本 ホームページ や Twitter で、私自身の考えや感想 (事にあたっての気持ち) を 「晒す」 ことは恥ずかしいとは思わないのですが、他人が係わる私の個人事を語るのはよしとしない。ただ、今回の テーマ が friendship なので、親友だった T.H. さんのことは、ここに記しておきたかった。本 エッセー を読まれた人たちは、個人事の開示を不快に感じられたと想像するのですが、初老が昔を振り返って、友情を懐かしんで思い出を綴ったと思って、許してやってください。

 友情は、作ろうとしても作れるものではないでしょう。いくつかの偶然が重なって、自然と生まれるものではないかしら。その意味では、私は幸せだったと言うしかない。「つきあいは親しんで狎 (な) れず、それがなにより」 (シェークスピア、「ハムレット」)、そして、友情は酒と同じで、長い年月をかけて熟成していくのでしょうね。

 無職と失恋のなかで失意のドン底にあった青春時代の私に生きるための価値を与えてくれた T.H. さんに感謝しつつ

 
 (2017年12月15日)

 

  このウインドウを閉じる