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All great deeds and all great thoughts have a ridiculous beginning.
(Albert Camus)

 

 Bloomsbury Thematic Dictionary of Quotations セクション Greatness の中で、次の文が私を惹きました。

    A truly great man never puts away the
    simplicity of a child.

    Chinese proverb

 
    No great man lives in vain. The history of
    the world is but the biography of great men.

    Thomas Carlyle (1795-1881) Scottish historian and essayist.
    Heroes and Hero-Worship, 'He Hero as Divinity'

 
    If I am a great man, then a good many of
    the great men of history are frauds.

    Bonar Law (1858-1923) British statesman.
    Attrib.

 
    You are one of the forces of nature.

    Jules Michelet (1798-1874) French historian.
    From a letter received by Dumas
    Memoirs, Vol. Y, Ch. 138 (Alexandre Dumas)

 
 Great のような基本語の意味は多義です── great の基本的意味は、類語辞典 (The Little Oxford Thesaurus) を読んでみると、big, severe, important, excellent, famous などが記述されています。いずれの意味であれ、great は私自身を形容するには無関係の語です (笑、そして苦笑)。

 引用文の一番目について、「ほんとうに優れた人たち」 を観てきて、確かにそうだと思う。simplicity of child という意味が、精神のこと (無邪気さ、天真爛漫) を云うのか、知性のこと (単純さ) のことを云うのかは この文だけではわからないのですが、私には精神・知性の両方をふくんでいるように思われます。「ほんとうに優れた人たち」 は、一事を長いあいだ追究してきたか あるいは辛い体験から色々と学んきたか、いずれにしても何かを突き抜けて (go through a great deal in life) 酸いも甘いも充分に噛みしめて至った状態でしょう。そして、我々凡人は、その状態至った 「ほんとうに優れた人たち」 を勘違いすることが多い。小林秀雄氏の次の言葉を私は思い起こします。

    天才というものも、この世に生れている限り、凡人と同じ構造の
    頭脳を持つ外はない。この自然の恩恵により凡人は天才の口真似
    造作なく出来る、つけ上った挙句天才なんぞいないなどという
    寝言を言う。馬鹿をみるのは天才で、天才は寛大だから腹を立て
    ないのではない、奇体な真理を探り当てるのは愚かであり、真理
    とはもともと凡人に造作もなく口真似が出来る態のものしかない、
    という事を悟る事が天才なる所以であるからこそ、虫をこらえて
    いるのである。

 引用文の二番目と三番目について。優れた人たちは歴史のなかに名を遺す。というよりも、優れた成果を遺したから歴史のなかに名を遺す。しかし、優れた人たちだけが社会を構成しているのではない。社会の歴史が、もし、優れた人たちだけの伝記で記述されるのなら、我々凡人は彼らの食べた パン の屑 (食べ残し) を拾って食していることになる。しかし、現実は逆ではないか。社会が大地になって花 (優れた人たち) を咲かせているのではないか。大地なしに花は咲かない。芥川龍之介氏は次の言葉を遺している (「侏儒の言葉」)──

    民衆

    シェクスピイアも、ゲエテも、李太白《りたいはく》も、近松
    門左衛門も滅びるであろう。しかし芸術は民衆の中に必ず
    種子を残している。わたしは大正十二年に「たとい玉は砕け
    ても、瓦《かわら》は砕けない」と云うことを書いた。この確信
    は今日《こんにち》でも未だに少しも揺がずにいる。

 芥川龍之介氏がどういう意図でこういう文を綴ったのか、、、私は若い頃 (30歳代) にこの文を気になっていたが賛同できなかった。寧ろ私は当時 (才走った若い人たちにありがちな 「超人指向」 に陥って) 反感を覚えた。しかし、初老になった今 (64歳、来月で 65歳) になって、芥川龍之介氏の文を実感できる。

 そして、引用文の四番目 「あなたは自然の forces [ ちから ] のひとつである」。社会が我々の大地であるならば、そこに咲く花が我々でしょう。そして、花には様々な種類がある──薔薇のような艶やかな花を 「優れた人たち」 とすれば、我々凡人は雑草なのかもしれない。しかしながら、雑草という草はない。一本一本の草です。

 私は、今の年齢になって、芥川龍之介氏の ことば を確かに実感できる。花に喩えれば、私は そろそろ 枯れる時節に居ます。そして、若い頃の力 (知・情・意) は次第に衰えてきました。しかし、枯れて絶えるまで、私は咲いていたい。そして、枯れて絶えても種子をのこしたい。

 
 (2018年 5月 1日)

 

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