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The first wealth is health. (Emerson)

 

 Bloomsbury Thematic Dictionary of Quotations セクション Health and healthy living の中で、次の文が私を惹きました。

    Health is better than wealth.

    Proverb

 
 引用文では health と wealth が対比されていますが──べつべつの観念として扱っていますが──、標題の Emerson 氏の言いかたでは health は wealth に包摂される概念として扱っていますね。どちらにしても、health は wealth として大事だと言っています。

 Health (健康) として、どういう状態を我々は想像するか、、、health そのものは我々の身心 (body and mind) の状態のことをいうので、良いとか悪いとかという価値判断はないのでしょう──身心状態の良し悪しを言うのであれば形容詞を付して、to be in poor/good/excellent health という言いかたをするでしょう。ただし、healthy となると、having good health and not likely to become ill/sick を言うようです。引用文 (および、Emerson 氏の ことば) で使われている health は、たぶん、healthy の意味なのでしょうね。

 私は去る 6月で 65歳になりました。私自身は年齢など気にとめていなかったのですが、二つの公的書類が私に年齢を意識させてくれました──市役所から送られてきた 「介護保険被保険者証書」と、年金事務所から送られてきた 「年金請求書」 です。つまり、私は 「高齢者」 になったということ。正直に言って、私は 「老齢」 と言われるのが嫌です。

 私の意識では、40歳代の頃と比べて、身心状態は それほど変化しているとは感じていないし、変化していないと感じることを錯覚とも思っていない。容姿は年相応に確かに白髪が多くなって禿げてきたけれど、身体運動を続けていて体重も長年一定していて健康診断では (中性脂肪が やや高めだけれど、その他の検査項目は) 良好だし、40歳代の体形と今の体形は ほとんど同じです。そして、思考力も衰えてはいない [ ただ、サッカー の外国人選手の長い カタカナ 名は覚えるのが面倒になっています (苦笑)]。そうは言っても、年を重ねれば、いずれ身心が衰えるのは必至でしょう。65歳の現在、その衰えを身体の運動と読書などの学習で なんとか抑止している (あるいは、老化の進行をおくらせている) というのが事実なのかもしれない。肉体 (筋肉) は、70歳くらいまでは、鍛えれば まだまだ向上するそうですから。

 私が中学校の頃、健康について母が私に言っていたのは、「私らのような貧乏人にとっては、体 (健康) が資本だから」 と。健康は、べつに貧乏人だけではなくて、すべての人にとって資本でしょう (笑) が、当時の私は 「なるほど」 と納得しました [ このことは現在も妙に記憶にのこっています ]。高校生になって、文学に のめり込んで、健康優良児のような健康体を軽蔑して 「やや病身」 な状態を憧れるようになりました。思索する人には、どこか 「やや病身」 な雰囲気が漂う──その状態が、知性を持った人の特権として思われました。病人というのは、健康な人よりも自分の精神に ヨリ近く迫るのかもしれない。しかし、そのいっぽうで、三島由紀夫氏の 「太陽と鉄」 (肉体讃歌) にも惹かれていました。私の青年期・壮年期では、おくらく、肉体と精神というのは べつべつの構成物 (生き物) と思っていました──寧ろ、精神の優位性を信じていたのかもしれない。ただ、30歳代・40歳代には、道元禅師の著作に親しんでいて、「一如」 (身心は同体である) ということを意識していました。

 60歳をすぎた頃から、私は身心は一つ [ 同体 ] であると思うようになりました (実感するようになりました)。身心は一つであるということを表現する ことば が health (健康) という ことば でしょう。しかし、老齢になってから 「健康」 を急に意識するようになるというのは、病気を患うは嫌だ──たとえば、治療費や介護費用が年金生活にとって打撃になる──ということの ウラ 返しなのではないか。そして、「健康」 であれば、治療費などの余計な金銭を費やさなくて済むという意味では、確かに health is better than wealth の一つの考えかたですが、寧ろ wealth に先立つ 「自立」 という意味のほうが 「健康」 の原初のすがたではないか。

 そうかといって、「健康」 数値のために、酒は呑まない・煙草を吸わない・市販の (防腐剤が多量に添加されている) 加工食品は食べない・夜更かしをしない等々を順守 (厳守 ?) することを私は意識して生活している訳ではない──実際、私は酒を呑むし、煙草を吸うし、スーパーマーケット の惣菜を食べるし、夜更かしもする。そして、生活時間帯も不規則です [ 昼夜逆転の生活を送っています、大学生の頃から ほぼそういう生活です ]。「健康」 数値を私が気にするのは (煩悩具足の悲しさなのか) 健康診断の時だけです──健康は失った時に初めてわかると云いますが、現代では健康診断のように数値で健康状態がわかる。

 自営の私は、不規則な生活を ズッとしてきている。そういう不規則・ふしだらな生活を続けてきて、65歳まで生きてきました。「健康 (healthy)」 とは決して言えない生活です (苦笑)。それでも、一つだけ絶対に崩さないできた決め事があります──「好きなことしかやらない (やりたいことを やる)」 と。それが私の独立開業した理由です、自営の特権でしょう──勿論、それ相応の対価 (収入の不安定、貧乏になることの覚悟) を払ってきました。やりたいことしか やらないから、たぶん、私は ストレス というものを感じたことがないのでしょう。ストレス が 「健康」 を害する大きな原因だと云われていますが、そういう意味では、私は ストレス・フリー の 「健康 (healthy)」 なのかもしれない。

 そして、そのこと (ストレス を感じてこなかったこと) が私の雰囲気を醸して、「苦労を知らない」 というふうに非難 (?) されるのでしょうね [ 実際、私の面前で そう言った人たちがいました ]──しかし、私とて社会のなかで生活してきていますので、様々な苦労をしています。ただし、苦労に対して ストレス を感じるかどうかは、べつの事だと思います。好きなことに打ち込んでいれば、ストレス を感じないでしょう。

 私は自営を続けているうちに、たぶん、ストレス を感じることに対して 「本能的に」 考えないようにしてきたのかもしれない──私は 「文学青年」 の性質が強く物事を 「考え込む」 ほうですが、自分を駄目にすると思われることに対しては考えることを直感的に回避するようにしてきたのかもしれない。たとえ難儀の渦中にいても、もし自分の意思で どうしようもできないことであれば、嵐が去るのを ジッとして待っているという態度だった──自ら積極的に行動して事態を荒立てることはしないし、事態を分析することもしない。ただ、ひたすら静かに坐っているだけです。そして、自分のやりたいこと [ 私のことをいえば、文学・哲学・数学・英語 ] に打ち込む。これが ストレス を感じない やりかた なのかもしれない。「自分 (自分の精神 [ 知・情・意] ) を創っていくこと 」にしか私は興味がないのかもしれない。

 
 (2018年 9月 1日)

 

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