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Must! Is must a word to be addressed to princes? (Elizabeth T)

 

 Bloomsbury Thematic Dictionary of Quotations セクション Impertinence の中で、次の文が私を惹きました。

    The right people are rude. They can afford to be.

    W. Somerset Maugham (1874-1965) British novelist.
    Our Betters, U

 
 引用文中、They can afford to be. は They can afford to be rude. の省略形でしょう──They can afford to be (rude) の意味は、「そうあることは平気である (ぶしつけであっても平気である)」。

 自分が 「正論」 をしゃべっていると思っている人たちは、自分が常に正しいと思い込んで 相手の論説を端から認めないようですね。そう思い込んでいる人たちが しゃべるときの態度は、きわめて ぶしつけ です、相手の論を聴こうとしない (そういう ぶしつけ な人たち数人の顔を思い浮かべながら、私は この文を綴っています [ 笑 ])。私の若い頃には、私の話かたが挑発的なので、多くの人たちから反感を買いましたが、それでも相手の論説を一つの説として認めるという justice を持っていたつもりです──相手の論には賛成できないけれど、相手の そう言う権利を否認するということは絶対になかった。この態度は齢 66になった今でも変わっていない、相手の論説が私とは反対の論説であっても [ 相手の論を私は賛同できないとしても ]、相手の論説を聴きます──私の考えと相違する相手の論説のなかに私の考えを進める (修正する) ための材料があるかもしれないので。私のこういう態度は、詰まるところ、私 [ 私の論説 ] のために そうしているのであって、他人の論説を聴く (遮らない) と云っても、私は自己中なのかもしれない、、、。

 「正しさ (真であること)」 を言い立てるには、論説は次の 2つを完備していなければならない──

 (1) 事実的な真 (F-真)
 (2) 導出的な真 (L-真)

 論説は 「事実 (Fact)」 と一致していることが先ず前提です。そして、それを前提にして 「無矛盾な推論 (Logic)」 を導出する。この ふたつのいずれが欠けても 「正しさ」 にはならない──これらを (意識的であれ無意識的であれ) 無視あるいは軽視すれば、虚構・隠蔽・改竄の虚偽になる。

 「F-真」 (事実と一致していること) を実現していたとしても、「L-真」 (無矛盾な論説 [ 証明 ] ) は いくつも作ることができる──たとえば、自然数を前提にして、1 を入力して 3 を出力するような プログラム (アルゴリズム) を作ろうとすれば、足し算を前提にして 「1+1+1」 を考えることもできれば、かけ算を前提にして 「1×3」 を考えることもでき、それらの どちらかが間違いで 1つだけが正しいという訳ではない [ それぞれの前提 (足し算・かけ算) において、ふたつとも正しい ]。前提を無視して、たった 1つしか (one and only) 考えかたがないという思い込みを私は拒否する、私は それを数学 (数学基礎論) から学びました、だから私は相手が私の論法とは違っていても私は丁寧に聴くことにしています──私は、論説の前提と論説の範囲について特に注意を払って相手の論説を聴くようにしています。

 ことば (記号) と意味 (値) が 「1対1」 という前提に立っている数学でも そうなのだから、ましてや ことば そのものが多義をふくんでいる自然言語を使う論説に於いては、言わずもがなでしょう。「事実」 は一つでも、それについての 「見かた (『解釈』)」 は様々です──「一水四見」 とは そういうことでしょう。そして、論説が無矛盾であるとしても、事実とは相違する [ 事実と一致しない ] ということも起こる [ L-真であっても F-真ではないということも起こり得る ]──それが言語の性質です。だから、しゃべられた状況をふくむ文脈のなかで論説の正否を判断するのは、とても難しい。

 論説が無矛盾であっても、その論説が健全である (完全である) ことにはならない [ ゲーデル の 『不完全性定理』]、かつ 論説そのものの中身に絶対的な性質はない [ スコーレム の パラドックス ]。常に 「事実」 から離れないようにして、常に 自分 (自分の論説・証明) を疑うこと──そういう態度を堅持している人が私に対して ぶしつけ であっても私は 毛頭 気にしない、なぜなら (こと論説に於いては) 私は その人について興味を抱いているのではなくて、私の論説を補充・拡張する目的においてしか その人の論説に興味がないから (笑)。だから私の態度が公平で立派だという訳ではないのであって、相手の論説のなかに聴くに値する意見もないくせに無駄にえらそうにしている ぶしつけ な ヤツ に対しては、私は その場を茶化して話を流してしまう。私は自己中なだけです。

 
 (2019年 8月 1日)

 

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