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He who has never hoped can never despair. (George Bernard Shaw)

 

 Bloomsbury Thematic Dictionary of Quotations セクション Indifference の中で、次の文が私を惹きました。

    Nothing is so fatal to religion as indifference,
    which is, at least, half infidelity.

    Edmund Burke (1729-97) British politician.
    Letter to William Smith, 29 Jan 1795

 
    I hear it was charged against me that
    I sought to destroy institutions,
    But really I am neither for nor against
    institutions.

    Walt Whitman (1819-92) US poet.
    I Hear It was Charged against Me

 
 Indifference の意味は 「無関心」、infidelity の意味は 「不信心、不貞」。引用文の一番目の意味は、「無関心ほど信仰にとって致命的なものはない、それは少なくとも半分は不貞を働いているということだ」 ということかな。「私は無神論者だ」 と言う人を たまに みるけれど、その人の言っている中身を聞いていると、「無神論」 というのは 「無関心」 であることの言い替えにすぎない──「神」 と対決して 「無神論」 に至ったという論証を私は哲学者たち [ たとえば、ニーチェ 氏 ] のほかに聞いた (読んだ) ことがない。宗教家を除いて、我々は 「神」 とか 「宗教」 について 普段 真面 (まとも) に向きあう機会は先ずないでしょう。日本に限って言えば、檀家制度の遺産なのか仏教が家々の葬儀に関与していることが多いので、家ごとに 一応 宗派には属しているけれど、まいにち の生活のなかで仏教信仰を意識していない状態が ほとんどではないか──その意味では、日本人の多くは宗教に 「無関心」 状態にいるというのが実態ではないか。

 私自身は、宗教 (禅宗 [ 曹洞宗 ]) に 或る程度 関心を抱いていて、道元禅師の著作を読んできたし坐禅もしてきました。しかし、(僧のような修行をしている訳でもなく) 在家のままに 「なんちゃって」 程度の関心を抱いているにすぎない。私は若い頃 (30歳代) 雲水 (僧) になりたいと思っていましたが、現在 (66歳) に至るまで ついに俗人のままで来ました。在家について、道元禅師は次のように きっぱりと言い切っていらっしゃいます (「正法眼蔵」 の 「三十七品菩提分法」)──

    在家の帰依者で、男女とりまぜて少しは仏道を学ぶ者もあるが、
    得道した例はまだない。仏道に達するのには、必ず出家するので
    ある。出家しおおせない連中は、どうして仏位が受け継がれよう。

    知るがよい、心身にもし仏法があるならば、在家にとどまること
    はできないということを。

    釈迦牟尼仏は言う、「出家受戒、コレ仏ノ種子ナリ、スデニ得度ノ
    人ナリ」。こういうわけであるから、知るがよい、『得度』という
    のは出家である。まだ出家していない者は、生死苦界をさまよって
    いるのである。悲しむべきことよ。
                               (以上、高橋賢陳訳)

 所詮 俗世に対する執着が私は強かったということです。そして、なまじ少しばかりの信仰を持っているから余計に厄介なことになる──戒律を尊重しながらも、そのいっぽうで、戒律を隠れて破ることに対して一片の罪悪感を抱きつつ快感を覚える。人生 65歳もすぎれば、墓の中まで持っていくような隠し事は二つ三つあるでしょう。立派な僧は、破戒とも思われるようなことも それが なんらかの理由で避けられないものであれば、言い訳せずに一身にうけとめ、その底まで沈んで それを見極めようとする──その生々しい例が親鸞聖人でしょう。戒律を破りそうな事態に遭遇したら、我々凡夫は、戒律を表面的に遵守して 一見 安全な (非難されない) 道を歩くか [ 戒律を守っていると自らの正しさを言い立てるか ]、あるいは破戒する言い訳をするか [ 戒律を破らざるをえなかった理由を枚挙して己は悪くないと言い訳するか ] の どちらかでしょう、親鸞聖人のように堕ちて究めることなどはしないでしょうね──私も しなかった [ 正確に言えば、できなかった ]、だから我々は凡夫なのですが、親鸞聖人が自らのことを凡夫と云うのであれば、我々は立つ瀬がない。

 道元禅師や親鸞聖人のような高僧は我々とは無縁の世界に生きた人物たちだと思っているのではないか──確かに、我々皆が僧のような生活をすることなど有り得ない。しかし、いっぽうで、我々は社会のなかで生きていて、あるいは社会の出来事を見聞していて、この俗世 (あるいは、それを構成している我々の人性) を 徹頭徹尾 是 (良いこと、正しいこと) とするほどの optimist も極めて少ないのではないか。「生なる われ、われ なる生」(道元、「正法眼蔵」) に思いを至らせば、たとえ出家のような生活を送れないとしても、凡夫は凡夫なりの功夫参学するのではないか、、、それが俗世の在家であって出家に較べて不徹底であっても、、、しかし、在家の功夫参学は真物 (まことのもの) ではないと知るべし。

 
 (2019年12月15日)

 

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