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Give a dog a bad name and hang him. (Proverb)

 

 Bloomsbury Thematic Dictionary of Quotations セクション Injustice の中で、次の文が私を惹きました。

    'No, no!' said the Queen, 'Sentence first -
    verdict afterwards.'

    Lewis Carroll (Charles Lutwidge Dodgson: 1832-98)
    British writer
    Alice's Adventures in Wonderland, Ch. 12

 
 引用文の意味は、「刑罰の宣告が先、答申は後で」 ということ。つまり、「結論(が先に)ありき」 ということですね──その結論に沿って、ストーリーを作りあげる [ でっちあげる (cook up a story)」 ということ。こういう injustice な行いは、日常生活では多々目にします──特に、マスコミなんかでは しょっちゅう 目にする (私も、かつて、マスコミ の取材をうけて、私の意見を丁寧に語ったのに、記事では私の意見が一部分だけを切り取られて、私の意見とは あたかも反対になるように使われていたという嫌な経験をしています。記者は、あらかじめ結論を持っていて その結論に都合のよい材料を集めて 都合の悪い材料は隠蔽・改竄する、およそ 「事実」 を伝えるという態度ではなかった)。

 Injustice は、justice の否定形、justice の意味は、fair and reasonable ── reasonable は、勿論、reason を使うことができるということ。「justice」 は、「正義」 というふうに訳されるようですが、do justice to という使いかたに示されるように、「equality (対等、あるいは、そのものがもつ価値を正当に評価すること)」 や fair (公平さ) を与えることに近い概念であると私は思っています。この意味において、引用文 (および、私を取材した マスコミ の記事) は injustce です。

 私が 30歳代の頃に、私は Eric Vesely 氏 (米国人、データベース 設計の コンサルタント) から データベース 設計を指導されました。私の恩師です。当時、私は日本に リレーショナル・データベース を導入普及する仕事に従事していました。日本には、リレーショナル・データベース は いまだ導入されていなくて、先例のない プロダクト でした (この辺のことについては、本 ホームページ の他の箇所で綴ってきているので割愛します)。その頃の私は、プロダクト としての データベース (Datacom/DB および Data Dictionary) の技術を専門としていて、データ 設計には興味がなかったし、寧ろ データ 設計など 「口先だけの」 学者先生・コンサルタント の 「呑気な」 稼業と蔑視していました。しかし、或る ユーザ 企業から データ 設計を学習研究して指導してほしいと依頼され、私は とうとう データ 設計の分野に手を出すことになった。そして、その手引きをしてくれたのが Eric Vesely 氏です。データ 設計に関する文献を読んだことのない私は、当初、Eric から指導されても、データ 設計について的外れなことを ときどき 言っていました。そのたびに Eric が私をたしなめた ことば は──

    Masami, you're right for a wrong reason.

 そう言われても、当時の私は開き直って 「結果が すべて。終わりよければ、すべてよし (The end crowns all)」 とうそぶいていました (苦笑)。実務界では、そういう風潮があるのではないか。勿論、こういう その場限りの紛 (まぐ) れ当たりは、ちゃんとした practitioner であれば、その場限りにはしないで、その事象を顧みて紛れ当たりになった理由を調べ、次にまた似たような事象が起こったときの教訓とするでしょう──ただ、若い人たちのなかには、紛れ当たりを自分の実力の賜物だと思いあがる人が ときどき いるのを私は目にして (私の過去の苦い体験を省みて) 苦笑しています。

 Logic (論理の世界) では、「前提」 を重視します──すなわち、前提が正しければ、それに対して妥当な推論を適用するなら、正しい結果が導かれる、という考えかたに立っています。私は、Eric から指導をうけていた頃、数学基礎論を学習していなかった。私が数学基礎論を学習するようになったのは、Eric から離れてからのことです。それ以来、私は 66歳の現在に至るまで、Logic を学習し続けてきて、推論のなかで 「前提」 を正しく立てることの大切さ・難しさを学習してきました。そして、勿論、推論の ルール も学習してきました。Logic では、当然ながら、無矛盾性・完全性を重視します。

 しかし、(Logic の世界を除けば、) 我々の日常生活では、Logic を厳正に使うことは ほとんど 存しない。それ故に、(「前提・推論」 が正しかろうか間違っていようが、) 「結果が すべて」 (あるいは、「まぐれも実力のうち」) ということが黄金律とさえ言えるほどに使われている。日常生活では、そのことは正しいと私も思うのですが、日常生活のなかと言えども、およそ論議では前提・推論の ルール は守るべきでしょう──そして、議論の根底には、justice を置くべきでしょう。しかし、遺憾ながら、日本人 (私が面談してきた、あるいは読書・Internet を通じて読んできた日本人) の多くは、まともに議論ができていなかった──議論を まともにできない人は、前提・推論の ルール を守らないで、前提が曖昧なままに論を進め (しかも、前提を論の途中で ズラ し)、推論の飛躍を犯して、自らの結論を押しつける (苦笑)。そういう人たちと議論しても、Logic を守っている人は彼らを説得することはできないでしょう──なぜなら、Logic を守らない人たちは、Logic を気にもとめていないから。そういう人たちから私は議論を いくどか挑まれたことがありますが、私は茶化して議論することを避けてきました──というのは、議論した時間を浪費して疲れるだけだから。Justice (fair and reasonable) を無視して、そして成果を生まない議論を空論と云うではないか。

 
 (2020年 3月15日)

 

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