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It is always the task of the intellectual to "think otherwise." (Harvey Cox)

 

 Bloomsbury Thematic Dictionary of Quotations セクション Intellectuals の中で、次の文が私を惹きました。

    The trouble with me is, I belong to a
    vanishing race. I'm one of the intellectuals.

    Robert E. Sherwood (1896-1955) US writer and
    dramatist.
    The Petrified Forest

 
 Intellectual の語義は、a person with a highly developed intellect. Intellect の語義については前回の 「反 コンピュータ 的断章」 で述べました、intellectual は intellect が非常に発達した人 (いわゆる 「知識人」) のこと。近年、「知識人」 と云えば、知識が豊富だけれど、reasoning (論理力、推論力) の欠落した人を皮肉るように使われることがあるので──そういう使いかたをするのは私だけかしら、、、──、私は 「知識人」 を intellectual とは呼びたくない。

 引用文は、日本語に直訳すれば、「私に於ける問題は、私が絶滅する種に帰属しているということである。私は、intellectual の一人である」。この文は、聞きようによっては、ずいぶんと傲慢に響きますが、あくまで 「The Petrified Forest」 という作品のなかの文章です──私は この作品を読んだことがないので、推測でしか言えないのですが、引用文のなかの一人称 (I、me) は たぶん a tree あるいは a forest を擬人化しているのではないかしら。

 さて、本 エッセー では、作品 「The Petrified Forest」 の擬人化を離れて、この一人称 「私」 を そのまま人として読んでみます──すなわち、a person with highly developed intellect は絶滅品種である、と。Intellectual は絶滅することは有り得ないと思うのですが──社会のなかで必ず一定数の intellectual は存在し続けると思うのですが──、その他大ぜいの人たち (すなわち、われわれ市井の民 (凡人) のなかで 「知識人」 と云われている人たち) の intellect な具合は、100年前の人たちに比べて低下していると私は感じています。私が ここで 「市井の民」 として言及している人たちは、具体的には作家 (文筆家) や読書子のことです──こういう人たちは、文章が後世に遺るので、それらの文章を読んで比較して判断しやすい。一言でいえば、現代人の 「知識人」 は、昔に比べて 「教養・知性」 が欠去している、と。

 「教養・知性」 については、「反 コンピュータ 的断章」 「反 文芸的断章」 のなかで かつて いくども述べてきたので、それらを読み返してください (本 ホームページ内を検索する サーチ・エンジン を使って閲覧してください)。ただ豊富な抜け目ない知識では、知性は生まれない。現代人が 「教養・知性」 を欠落してきた理由は私には詳 (つまび) らかにする才量はないけれど、われわれは他人を 「知性がない」 と罵 (ののし) る、しかし 当人は他人の知性を否定するに足るような知性を身につけていない──これが こんにち 論戦のなかで 「持論」 とか 「論破」 などいう ことば が軽率に使われている現状でしょう、真面目に reasoning を辿ろうとしている人こそ被害を蒙る。小林秀雄氏は、いわゆる 「知識階級」 を次のように鋭く抉 (えぐ) り出しています──

    近頃、知識階級の没落という事が喧しいが、知識階級が没落
    なんぞされては堪らない。没落するのは なまけもの階級だけ
    である。知識階級の没落とか スポオツ の階級性だとかと堂々
    と論文が書けるようでは、学者も中々暢気な商売止められなか
    ろう。私は現代日本のなまけもの階級の存在は確信しているが、
    知識階級の存在はあんまり確信していない。知識階級の精鋭と
    して、知識の演ずる悲劇を、情熱をもって歌った作家の存在に
    至っては、もっと確信していない。
     (「アシル と亀の子 V」)

 私も彼と同意見です。

 
 (2020年 7月 1日)

 

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