× 閉じる

Unseasonable kindness gets no thanks. (Thomas Fuller, M.D.)

 

 Bloomsbury Thematic Dictionary of Quotations セクション Kindness の中で、次の文が私を惹きました。

    This is a way to kill a wife with kindness.

    William Shakespeare (1564-1616) English dramatist.
    The Taming of the Shrew, W: 1

 
 この引用文は、シェークスピア の作品 「じゃじゃ馬ならし」 からの文です。私は、この作品を読んだことがないので、話の筋を まったく知らないし、この引用文が どのような文脈のなかで使われたのかも まったく知らない。この引用文だけを対象にして日本語に訳せば、「こんな やりかた では、親切がすぎて かえって妻を だめにしている」 ということかな──「甘やかして だめにする」 ということかしら。反対に言えば、「もっと強い態度で接しなさい」 ということかもしれない。子どもに関して そういう言いかたをするかもしれないけれど──たとえば、Spare the rod and spoil the child (むちを惜しめば子どもは甘えて だめになる) のような考えかたも一理あるけれど──、シェークスピア が生きていた時代の道徳を私はわからないので現代の道徳を以て彼の時代の道徳を非難しようとは思わないけれど、少なくとも現代では、およそ 大人の [ 一人前の ] 妻について言う ことば じゃないでしょうね。

 子どもに対して過保護 (あるいは、過度な放任主義) は、This is THE way to kill a child with kindness だと私は思う。私の若い頃 (高校生だった頃)、或る テレビ 番組で、或る評論家が彼の子ども (小学生くらいだったと私は記憶しています) といっしょに出演して 「教育」 について語っていたのを観たのですが、彼の教育信条は放任主義だと言っていました。彼の子どもは、テレビ 番組に出演しているのにもかかわらず [ 公衆の面前にもかかわらず ]、行儀が悪かった── 子どもは ソファ に半分寝そべったり、落ち着きがなかった。テレビ に出演するので小学生の彼は普段とは違う雰囲気のなかで落ち着きがなかったのかもしれないけれど、彼の態度は明らかに甘やかされて育ったという印象だった。私は、それを観て、「偉そうに教育だのと言っているけれど、放任主義の成れの果てが こんなもんか」 と思った。良し悪しの判断ができない子どもの頃 (中学生まで) に放任主義は育児放棄だと私は思う。

 私の父は教育について語るほどの評論家ではなく極々平凡な会社員でしたが、父は私が中学校を卒業するまで私の行動について口うるさく干渉してきました。そして、私が高校生になったとき、父は私の行動について 一切 何も言わなくなった──父 曰く、「中学生までは親の責任として躾をするが、高校生になったからには自分で判断して行動しなさい。オマエ が悪いことをしようとしても、中学生までの教育が それをさせないだろう」 と。父のその ことば を今でも私は覚えている。私は小学六年生の夏まで海辺の半農半漁の村で育ち、その後に我が家は富山市内に引っ越しました──村では学年 (34名の一クラス)の成績が一番か二番だったのですが、街の中学校では入学早々の学力 テスト で学年 360数名中 360番という体たらくでした。しかし、その後、成績が次第に伸びて、学年で 10番以内に入るまでになった。中学生の頃は、学業成績が 当初 底辺でしたが次第に伸びていき、3年生の頃には いわゆる 「優等生」 でした。高校は県で一番の進学校に入学したのですが、欠席日数が最多を記録して、成績も下の下でした──学校の欠席が多かったけれど、品行が修まらない ヤンキー ではなくて、家で文学書を読んでいました (この頃に専ら読んでいた作家が、有島武郎・川端康成・三島由紀夫そして西洋文学 (翻訳) でした)。私が学校を欠席して家にいて文学書を読み漁っていたのに、父は何も言わなかった──放任主義と云っていいほどに父は不干渉だった。

 私の結婚式の主賓として出席していただいた上司の ビル・トッテン 氏が式の合間に父と話したとき、「どういう教育をしたのですか」 ということを しきりに質問なさっていたことを、後日、父から聞きました。ビル・トッテン 氏から観たら、当時、私は 「ふつうの」 日本人とはちがっていたそうです──彼の眼に そう映ったのは、たぶん、私が (日本の) 高校教育・大学教育を まともにうけていなかったからだと思う (いっぽうで、文学書・哲学書ばかりを読んでいました)。自我が目覚める高校生・大学生の頃には、自我が欲する (渇望する) ままに任せてもいいのではないか、いっぽうで道徳的な良し悪しの判断は、中学生までの躾が太い根幹となっているでしょう。逆に言えば、中学生までの躾が疎かになれば、This is a way to kill a child with kindness となるのではないか。個性の豊かさは放任主義では生まれないと思う──放任主義は、土台 (discipline) を欠如した放縦にすぎないのではないか。ここでいう disciplien とは、the ability to control your behaviour or the way you live, work, etc のこと──たとえば、He'll never get anywhere working for himself--he's got no discipline (OXFORD Advanced Learner's Dictionary )。Discipline は、日本語で云うところの 「一本筋が通る」 ということだと思う──その反対が 「節操がない」 ということでしょうね、初期 (子どもの頃) の躾を疎かにした放任主義は そんな程度のものでしょう。

 
 (2020年12月 1日)

 

  × 閉じる