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Something that everybody wants to have read and nobody wants to read. (Mark Twain)

 

 Bloomsbury Thematic Dictionary of Quotations セクション Literature の中で、次の文が私を惹きました。

    Literature is the art of writing something that
    will be read twice; journalism what will be
    grasped at once.

    Cyril Connolly (1903-74) British journalist.
    Enemies of Promise, Ch. 3

 
    The reading of all good books is like a
    conversation with the finest men of past
    centuries.

    René Descartes (1596-1650) French philosopher.
    Les Discours de la méthode

 
    He knew everything about literature except
    how to enjoy it.

    Joseph Heller (1923-1999) US novelist.
    Catch-22, Ch. 8

 
    Literature is news that STAYS news.

    Ezra Pound (1885-1972) US poet.
    ABC of reading, Ch. 2

 
 文学・文芸 (literature) とは何かという正面切った意見を この エッセー で述べることは、文学の専門家ではない単なる文学愛好家にすぎない私には到底できるはずもなく、文学の特徴を述べている上記の引用文について私の感想を述べるのみです。

 引用文の 1番目の意味は、「文芸とは再読されるであろうものを書く芸術である、いっぽう ジャーナリズム というのは即時に把握するものを書く技術である」。言い替えれば、文芸は鑑賞の対象となる文章技巧であるが ジャーナリズム は即時把握 (速報性) の文章技術であるということでしょうね。私は ジャーナリズム が大嫌いであることを先ず正直に述べておきます、したがって ジャーナリズム について私が意見を述べる際に bias (偏見) が 或る程度 混入する嫌いがあることを私は自覚しています。

 ジャーナリズム では報道紙面が限られているので ニュース を伝える際に工夫を凝らした文体・語法──それを journalese と云うそうです──が生まれるのは当然なのですが、陳腐で大げさな表現を使っていることに私は嫌悪を覚える──たとえば、「○○ の実態に迫る」 というような表現など。文学は、事実を正確に写し取る技術ではなくて、虚構のうえに something を物語る技術でしょう。そして、或る事柄を多くの人々に わかりやすく伝えるはずの報道文 (特に新聞の記事) が作家崩れの臭みのついた文体ともなれば、読むに堪えない。ゆえに、私は新聞を読まないし テレビ・ニュース も視聴しなくなった──それで生活が困ったことなどない。世間で話題になっていることは WWW・SNS 上で騒ぎになるので、その騒ぎのなかで私が興味を抱いた事柄については、私は WWW・SNS 上を丁寧に検索して できるかぎりに一次情報を入手するようにしています、一次情報を入手できないときには その事柄について できるかぎりに多くの情報を集めて真偽を蓋然的に判断しています──この労役には多大な時間を費やすことになるけれど、ジャーナリズム が垂れ流す 上っ面の (虚構・隠蔽・改竄を施した印象操作の) 情報を うかつに信用することには陥らない。

 老齢になった私 (68歳) は、社会との関わりも薄れてきて、自らの残りの人生を充実すべく自己中になっているのかもしれない。自分自身が関与できない事柄については ほとんど興味を抱くことがなくなったし──若い頃から その傾向は強かったようですが──、「文学青年」 気質の強かった私は今の自分を形成してきた文芸作品を いくども読み返して自らの思想遍歴を調べることが愉しい。そして、私は私自身を知ることによって他人を知りたい。

 引用文の 2番目の意味は、「良書を読むことは、何世紀も昔の すばらしい人たちと会話するようなものだ」。私の愛読書の一つである 「徒然草」 にも、「ひとり灯のもとに文をひろげて見ぬ世の人を友とするこそ、こよなうなぐさむわざなれ」 と綴られていて、700年以上前に生きていた兼好法師も我々と同じ愉しみを味わっていました。これこそ、読書の醍醐味ではないか。読書は 「教養」 であるということを云う人たちもいるようですが、それが正しい論であるとしても そんなことは私にとっては どうでもいい、その書物 (すなわち、それを書いた作家) に惹かれるから読んでいるというのが正直な感想でしょうね。その作家を好きでなければ──「教養」 を身につけるなどと大上段に取り組んだとしても──読書は続く訳がない。あたかも 生身の親友と会話しているように書物と つきあう──作家と会話しているようになるには、その作家の作品を できるかぎりに多く読んでいなければならないでしょうね、だから 作家の全集が出版されていれば全集を読むのが一番にいい、全集を買うことができなければ──たとえば、その作家の全集が出版されていないとか、全集の値段が高価で買うことができないとかであれば──選集を買って読むか、個々の作品を できるかぎりに集めて読めばいいでしょう。私が所蔵している全集は、有島武郎氏・亀井勝一郎氏・梶井基次郎氏・ウィトゲンシュタイン 氏・道元禅師・澤木興道老師の全集です、選集に至っては数が多すぎて ここでは割愛します。彼らの書物を読んでいて、68歳になった私は 今でも彼らから私の言動を たしなめられている。

 引用文の 3番目の意味は、「文学について すべてを知っている人がいる、それを愉しむことを除いて」。文学史を研究している学者は、難しい仕事をしていると思う──自分の好きな作家について研究していても、その作家のほかにも数々の作家について述べなければならないのだから。文学史の執筆は研究家が独りで成す仕事ではなくて、研究家が多数集まっての共作にならざるを得ないでしょうね、あるいは (自分の研究していない作家については) 学会の定説 (通論) を述べるにとどまるでしょうね。この点は、文学史の研究にかぎらないで、およそ すべての仕事について云えることでしょう。我々の知力およびそれを行使できる時間にはかぎりがあるので、専門分野のほかは 「通論」 に頼るほかはない。そして、或る分野を専門にしている研究家に向かって その分野の 「通論」 を シロート が述べるほど滑稽なことはない。「客観的」(通論的) な知識が豊富な人──それでいて、愛好する作品がないという人──が陥りやすい罠は、批評することに愉しみを覚えると、立派な作品に惹かれる喜びが奪われることではないか。批評は気楽だけど、芸術 (あるいは、制作) は難しいよ。批評家というのは、元来、批評対象たる作品の内を歩む自らの精神の冒険を語る告白者だと私は思っています。私が敬愛する荻生徂徠曰く、「自分より見え申さざる内は批評も無益に候」(「書簡」)。

 引用文の 4番目の意味は、「文芸作品とは目新しく変わったことを旨とする、そして目新しさをそのままもちこたえている」。この引用文を読んだとき、私の頭に一番先に浮かんだのは 「花伝書 (風姿花伝)」(世阿弥 作) でした──「花伝書」 が訴えている 「花」 というのは、いかに それを深遠に語ろうとも、この引用文の一言に尽きるのではないか。二番煎じでは だめなのである──「初心忘れるべからず、ときどきの初心忘れるべからず」 とは そういうことではないか。世阿弥は、「花」 を抽象的に語らなかった。かれは、「花」 を咲かせる種として、つねに、最高の 「技術」 を体得するように意識していました。かれは、「位 (幽玄の風姿)」 を真似るなと注意しています。A. フランス (小説家) のことば──「表現法の新しさや或る芸術味などだけによって価値のあるものは、すべて速かに古臭くなる」。引用文中の news that STAYS news というのが とりもなおさず (news [ ひとつの興味を惹く出来事 ] でありつつ) 普遍性を有しているということでしょうね。

 文学は、私にとって桃源郷 (ユートピア) です──そこでは、私は誰の制約・束縛 [ 社会のなかで嫌というほど味わっている制約・束縛 ] をうけない、私を閉めだしたりしない。だから、「文学青年」 は、往々にして、白昼夢に浸る世間知らずと非難されることがある。それを重々承知のうえで私は気に入った作家たちを読む。これらの作家たちは、私に話しかけてくれるけれど、私に対して苦言も多く言う。作家たちが書かざるを得ないに至った事柄を読むのは愉しい。私に残された人生は、平均寿命に照らせば 10数年しかない──私は死ぬまで書物を読んでいたい、私が所蔵している書物の 「断捨離」 をしはじめたら、その時は私が死ぬことを覚悟した時でしょうね。

 
 (2021年 7月 1日)

 

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