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It is time for the great silent majority of America to stand up and be counted.
(Richard Milhous Nixon)

 

 Bloomsbury Thematic Dictionary of Quotations セクション Majority の中で、次の文が私を惹きました。

    The majority has the might -- more's the pity
    -- but it hasn't right...The minority is
    always right.

    Henrik Ibsen (1828-1906) Norwegian dramatist.
    An Enemy of the People, Ⅳ

 
    The worst enemy of truth and freedom in
    our society is the compact majority. Yes, the
    damned, compact, liberal majority.

    Henrik Ibsen
    An Enemy of the People, Ⅳ

 
 引用文の 1番目の日本語訳は、「多数派は勢力をもっている、さらに(多数派でない人たちに対して)見下した気持ちを持っている、しかし正しいところがない、少数派は常に正しい」。2番目は、「われわれの社会における真実や自由の最悪な敵は、こじんまりした多数派である。そうさ、くそいまいましい、こじんまりした、リベラルな多数派なのさ」。

 私は、徒党を組むのが大嫌いです──べつに孤高を気どっている訳じゃないけれど、独りでいるほうが好きです (I'm not a people person)、そして社会の一般的動向や世論の多数派意見に対しては、私は違和感を覚えることのほうが多い。だからと言って、私は天邪鬼 (devil's advocate) ではないつもりです。ただ、世論の多数派なんて マスコミ が報道しているのであって、インターネット が普及してから マスコミ 報道の いわゆる 「印象操作」 の ひどいことが ネット 上で暴露されて、マスコミ が報道する世論なんて信頼するには不十分でしょう──私が周りの人たちから聞く意見と マスコミ の世論調査との ズレ を感じることが多い。だから、ひょっとしたら、事が起こったときに それに対して私が感じる思いは (意見というほどの たいそうな考えではなくて、印象というほどの所感にすぎないけれど) 多数派かもしれないし、少数派かもしれないし、そのどちらであるかを知る確かな資料を私は持っていない、私と同じように 多くの人たちが そうではないか。会議などの人数が限られた場で出た意見は、その会議での多数派か そうでないか を確実に判断できるけれど、膨大な人数を対象とする世論が正当な統計手法を使って調査されていないのであれば 体のいい・恣意的な アンケート にすぎないでしょうね。

 私は、じぶんの意見が他人の意見に比べて正しいと思うほど うぬぼれてはいないけれど、私が じぶんの判断の拠り所 (根拠) としているのは、じぶんの実感です。勿論、自らの体験のなかで得た所感や それらの体験から類推できる出来事を想像して感じる気持ちは、体験してきたことの量・質を超えて生まれはしないので、限りがある。それらの体験を超える事態についての私見は、できる限り資料を集めて、集めた資料を読んで論理的に考えて判断する習慣を私は身につけているつもりです。しかし、個人が いかに がんばっても、自らの意見を述べることのできる テーマ (事柄) には限りがあるでしょう。でも、時には、日ごろ考えてもいないことについて、意見を述べなければならないこともある──そういうときには、私は直感 (あるいは、直観 [ 直知 ]) を重視しています。直感 (あるいは、直観) というのは、今まで習得してきた才知を以て作用するので、私は じぶんの直感 (直観) を疎かにはしない。勿論、直感 (直観) は、論理の検証をしていないので、対象を見誤ることもあるけれど、たいがい 外れないことのほうが多い。何はともあれ、多数派と言われる意見など どうでもいいではないか、じぶんの思考・気持ちに正直であればいいと私は思っています。

 引用文の 1番目が云っているような 「少数派が常に正しい」 とは私は思っていない、少数派にしろ多数派にしろ、それぞれの意見には おのおの 一理あるのは当然でしょう。どういう 「事実」 を どのような 「視点」 から どういうふうに 「解釈」 しているか、そして その 「解釈」 を説明や証明するときに、不整合がないということが大事であって、数学の証明式でもないかぎり(言い替えれば、社会の中で起こる事態については) 「視点」 は一つではないことくらい われわれは充分に知っているではないか。他人の 「視点」 「解釈」 「証明 (あるいは、説明)」 に対して、じぶんが賛同できるかどうかという点が大事なのであって、賛同する人たちが多ければ多数派になるし、少なければ少数派になるというだけの話ではないか──つまり、私にとって、自らの思考・気持ちが大事であって、多数派とか少数派というのは どうでもいいわ。

 現代の日本は、自由主義・民主主義が 一応 建前となっているので、「最大多数の最大幸福」 という原理が社会制度を構成・維持しているのだから、多数派の意見が通るのは当然でしょう。もし、じぶんが多数派の意見に賛同できないのであれば、反論を述べる機会は (建前では 一応) 与えられている。しかし、多数派は じぶんたちが 「正しい」 (社会的正義を実現している) と思い込んだとき、きわめて残酷な振る舞いをするようですね──集団になれば、それぞれの人の思考が停止して 同調圧力が作用し、愚行を犯しやすいことは (歴史上でも日常生活でも) 多々 目にしてきたではないか。その意味では、イプセン 氏の ことば (引用文の 1番目・2番目) について私は納得します。ちなみに、私は イプセン 氏の作品 (「人形の家」 「ヘッダ・ガブラー」) を若い頃に愛読していました。「最大多数の最大幸福」 や 「多数決」 という原理を政治的に悪用して 「多数派工作」 などという ことば が平然と使われていることに対して私は不快感を覚えます。次の ことば を私は たびたび 引用してきたのですが、多数派についての この エッセー でも、その ことば で締めくくりましょう──「お前の道を進め、人には勝手な事を言わしておけ」 (ダンテ)。

 
 (2022年 2月15日)

 

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