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We forget because we must / And not because we will. (Matthew Arnold)

 

 Bloomsbury Thematic Dictionary of Quotations セクション Memory の中で、次の文が私を惹きました。

    I never forget a face, but I'll make an
    exception in your cace.

    Groucho Marx (Julius Marx; 1895-1977) US comedian.
    The Guardian, 18 June 1965

 
    Better by far you should forget and smile
    Than that you should remember and be sad.

    Christina Rossetti (1830-74) British poet.
    Remember

 
 引用文の 1番目の日本語訳は、「私は人の顔を忘れることはないのだが、君の場合は例外としましょう」。2番目の訳は、「覚えていて悲しむことに比べたら、忘れて笑っているほうが はるかによい」。引用文の 1番目は皮肉だろうね、「君のことなど覚えていたくもない (さっさと忘れたい)」 という嫌味でしょうね。2番目は、「過去に起こった嫌なことを思い出しては悲しんでいるのは止めて、そんなことを さっさと忘れて笑っているほうがいい」 ということかな。

 過去の嫌なことを忘れられるのであれば、それに越したことはないけれど、忘れたいから忘れるというほど記憶は単純ではないでしょう。私は、ふとしたときに、小さいとき (60年以上も前の幼稚園生・小学校生のとき) の記憶が蘇る。私の記憶 (過去の同じ記憶) を蘇らせる要因というのは、様々であって、定まった要因ではない──或る時は、他人としゃべっているときであったし、或る時は高尾山を散策しているときであったし、同じ体験の記憶であっても、それを呼び起こす原因は様々です。「原因-結果」 という 「充足理由の原理」 を以て説明できる訳ではないようです。だから、われわれは──少なくとも、私は──、記憶を忘れようとして、忘れられるものではないでしょう。われわれの記憶が、パソコン や スマホ のように、ファイル を削除して 「ごみ箱」 に入れて、その 「ごみ箱」 のなかに入れた ファイル すべてを完全に削除できるようなものであれば、生活していくうえで 至極 楽 (らく) になるのだろうけど、幸いか不幸か──私は幸いだと思うのですが──われわれの記憶はわれわれ自身の意志を以て御することはできない。私が 「幸い」 と言った理由は、それ (記憶) が われわれの人生を振り返ったとき、われわれの人生を形作っていると思うからです。

 私が介護施設で働いていたとき── 5年 3ヶ月、働きましたが──、ご利用者さま (居住者) は 全員 認知症でした (軽症から重症まで様々でした)。軽症の人は、直近 (最近) の記憶を喪失しているのですが、重症となれば、その喪失が かなり過去の記憶まで及びます。私が 最初 介護施設で働きはじめたとき、認知症を初めて直に接して とても戸惑いました。介護士であれば、最初に体験する戸惑いでしょうね。勿論、介護士として勤続年数を積めば、そういう状況に対応できるようになるのですが──認知症であっても、様々な現象があるので、そのときの現象を観て、対応することになりますが──、直近 (あるいは、最近) の体験なので 記憶が明らかにのこっているはずと思われることについて 「記憶を喪う」 ということを、様々な認知症の人たちと直に接して、私は考えさせられました。それについての私の意見を述べるのは、この エッセー くらいの文字数では足らないので、ここでは控えますが、「認知」 とか 「記憶」 とか 「意識」や 「自我」 について考えるきっかけを介護施設で働いた体験は 「文学青年」 の私に与えてくれました。

 思い出が多いほど豊かな人生であると云われますが、思い出というのは記憶から忘却へ移る過程で残存した廃墟なのかもしれない──しかも、廃墟であるにもかかわらず、そのときの 「事実」 そのままの記述というよりも われわれの 「印象」 が濃い霧のように廃墟を多い包んで隠している、その 「印象」 が悲しいものであれ甘美なものであれ。そして、その 「印象」 が人生の彩りをきめているのでしょうね。

 
 (2022年 8月 1日)

 

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