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All that we do is done with an eye to something else. (Aristotle)

 

 Bloomsbury Thematic Dictionary of Quotations セクション Motive の中で、次の文が私を惹きました。

    Never ascribe to an opponent motives
    meaner than your own.

    J. M. Barrie (1860-1937) British novelist and dramatist.
    Speech, St Andrews, 3 May 1922

 
    The last temptation is the greatest treason:
    To do the right deed for the wrong reason.

    T. S. Eliot (1888-1965) US-born British poet and dramatist.
    Murder in the Cathedral, I

 
    Because it is there.

    George Mallory (1886-1924) British mountaineer.
    Answer to the question 'Why do you want to climb ML Everest?'
    George Mallory (D. Robertson)

 
    Nobody ever did anything very foolish except
    from some strong principle.

    Lord Melbourne (1779-1848) British statesman.
    The Young Melbourne (Lord David Cecil)

 
    The heart has its reasons which reason does
    not know.

    Blaise Pascal (1623-62) French philosopher and mathematician.
    Pensées, IV

 
    Men are rewarded and punished not for what
    they do, but rather for how their acts are
    defined. This is why men are more
    interested in better justifying themselves than
    in better behaving themselves.

    Thomas Szasz (1920-2012) US psychiatrist.
    The Second Sin

 
 前回 (5月15日) からの続きです。

 引用文 3番目の日本語訳は、「なぜなら、そこに存るから」。
 登山家 ジョージ・マロリー 氏の有名な ことば ですね。「なぜ、あなたはエベレストに登りたかったのか?」と問われての彼の応えです。マロリー 氏は、未だ誰も その頂上に立ったことのなかった エベレスト 山の登頂に 3回挑戦していて──第 1次遠征隊、第 2次遠征隊そして第 3次遠征隊に参加していて──、第 3次遠征隊 (1924年) のときに頂上付近で滑落して死亡しています (享年 37歳)。第 3次遠征隊のときに マロリー 氏が登頂したかどうかが長いあいだ争点になっていたそうです。英国の国威をかけての遠征隊だったそうで、追悼式には、国葬のような規模で セント・ポール 大聖堂において行われ、首相や国王が参列したそうです。もし、マロリー 氏が エベレスト 山を登頂していれば、「初登頂」 は マロリー 氏らの栄誉とされたのでしょうが、登頂したという確証がないので、「初登頂」 (1953年) した人物は エドモンド・ヒラリー 氏らとされています (この辺の事情については、Wikipedia などを私は参考にしています)。

 そういう事情を離れて、一人の登山家が言った ことば として この引用文を読めば、登山家にそう訊ねたら、そういう応えが返ってくるのが普通ではないか。すなわち、「私は登山が好きだ (登山の専門家だ)、そして 登山するのであれば最高峰に登りたいというだけのことで、べつに仔細などない」 ということではないか。この Motive (動機) というのは、登山に限らず、それぞれの専門領域において過去の最高実績に対して、それを尊敬して それを学習研究して それを咀嚼して超えていくというのが研究者の動機になっているのではないか。そういうふうにして学問・芸術は発展してきたのでしょう。

 私のような程度の凡人でも、仕事のうえで、いわゆる 「数学基礎論」 を学習しなければならなくなって、「ゲーデル の定理」 という当時の最高峰を知ったからには、その最高峰を登りたい──なんとかして、その定理をわかるようになりたい──という強い欲求が起こったのは今でも覚えています。勿論、ゲーデル の定理は 当時の数学者たち (たとえば、公理的集合論の創始者である ツェルメロ) でさえも正確に把握できなかったくらい難しいので、数学の専門家ではない私には、実際に登頂する (正確に把握する) ことなどできなかったのですが、ゲーデル 以後の数学者たちが著した ガイドブック を読んで、地図上で登頂への ルート を知ることだけはできたと思っています (ゲーデル の定理をわかったという実感がない、その証明のなかで綴られている文字列を読んだだけであることを正直に告白しておきます)。そして、ゲーデル の定理を読みたいがために数学基礎論を懸命に学習しているうちに私は数学基礎論の基本技術を習得することができました。およそ、仕事 (創造的な仕事) をやるからには、その領域で最高級の人を先ず手本にするのが一番の手引きになるのではないか。最高級の人を手本にしつつ、己れと戦う──昨日の自分よりも今日の自分が一歩でも進むように頑張る──というのが学習研究の正当な進めかたではないか。

 
 (2023年 6月 1日)

 

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