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There is in human nature generally more of than the fool than of the wise.
(Francis Bacon)

 

 Bloomsbury Thematic Dictionary of Quotations セクション Human Nature の中で、次の文が私を惹きました。

    When dealing with people, let us remember
    we are not dealing with creatures of logic.
    We are dealing with creatures of emotion,
    creatures bristling with prejudices and
    motivated by pride and vanity.

    Dale Carnegie (1888-1955) US lecturer and writer.
    Dale Carnegie's Scrapbook

 
    A man so various, that he seem'd to be
    Not one, but all Mankind's Epitome.
    Stiff in Opinions, always in the wrong;
    Was Everything by starts, and Nothing long.

    John Dryden (1631-1700) British poet and dramatist.
    Absalom and Achitophel, T

 
    We need more understanding of human
    nature, because the only real danger that
    exists is man himself...We know nothing of
    man, far too little. His psyche should be
    studied because we are the origin of all
    coming evil.

    Carl Gustav Jung (1875-1961) Swiss psychoanalyst.
    BBC television interview

 
    It is not the ape, nor the tiger in man that
    I fear, it is the donkey.

    William Temple (1881-1944) British churchman.
    Reading in St John's Gospel, Vol. I, Introduction

 
 引用句辞典に掲載されていた 25篇の中から、上記の 4篇を選びました──いずれの引用文も、人間の愚かさ (vanity、evil、donkey) を指摘していますが、そういう文を選んだということは、私が そういうふうに human nature を観ているということを示しているでしょうね。我々が住んでいる社会を観ていて、そう思わないほうが極めて呑気ではないか?

 我々の そういう度し難い愚かな性分を ありのままに凝視するのが宗教なのでしょうね。私は宗教を語るほどの知識を持っていないのですが、少なくとも私が信奉する禅では、澤木興道老師曰く──

    「鉄牛は獅子吼を恐れず」と言うが、そりゃそうじゃ。
    生物の弱点がないから。

    金持ちを自慢する奴やら、地位を自慢する奴やら、
    サトリ を自慢する奴やら。

    自分が美味いものを食わんでもいい。また、出世せんでもいいが、
    しかし、人の美味いものを食いたがる気持ち、出世したがる気持ちも
    わからんような アホ では駄目だ。

 若い頃には、正義感に駆り立てられて、ただただ 観念的な正義を押し通そうとするが、現実に阻まれて挫折し、分かり切った正義が どうして実行されないのかと憤怒を覚え失意しがちですが、我々は 「鉄牛」 ではないことに思い至らない。

 宗教は、法令でも道徳でもない。宗教にも戒律がありますが、戒律が存する理由は、たぶん、ぐだぐだな凡夫の ゆがみ を捨て去って 「仏」 になるための途上の修行心得なのでしょう。では、「仏」 とは何か──澤木興道老師の ことば を記録した書物を読んでください (出家していない私が知ったかぶりして述べても伝わらないでしょう)。

 「宗教は民衆の阿片である」 (マルクス、「ヘーゲル 法哲学批判」)、確かに そういう危険性を宗教は孕んでいます──矛盾に満ちた現状に対して不安を覚えて、何ものかの力をかりて 「陶酔」 しようとする。しかし、我々の精神の弱さに つけこんで、教えの御利益 (便益) を説いて誑 (たぶら) かすような宗教は贋物でしょう。宗教は、覚醒していることが大前提です──そして、このこと (ゆがみ のない覚醒した状態) が一番に難しい。それを 「空」 とか 「無私」 と云っているのではないか。

 生きているうえで物事に執着した 「私」 を大事にしている我々凡夫には、厳正に言えば、「覚醒する」 ことは無理なことでしょう──「本証妙修 [ 修行が、そのまま、悟りである ] 」(道元禅師)、「悟り (覚醒した状態)」 とは修行そのもの のことであるならば、在家であるかぎりは悟りを得ることはできない。本物の宗教家 (たとえば、道元禅師) の説示を読んで、私自身が どれほどに ゆがんでいるかを知るのは、あながち徒為ではないでしょう。我々には、めいめい持ちの ゆがみ がある──だから、「人を観て法を説け」 という説法が生まれたのでしょう。この説法は、世に伝わっているような 「仏法を説くための便法 (便宜)」 ではないと私は思います。しかし、若い頃には、「人を観て法を説け」 ということがわかるはずもない──なぜなら、めいめい持ちの ゆがみ がわからないから、そして杓子定規の正義も ゆがみ であることに思い至らないから (私自身の若い頃を振り返っての悔恨です)。道元禅師の歌──

    波もひき 風もつながぬ 捨て小舟 月こそ 夜半のひかりなりけれ

    水鳥の ゆくもかへるも 跡たえて されとも 道はわすれさりけり

 道元禅師の境地は、俗世に どっぷりと浸かった凡夫の私には、とうてい至ることのできない境地 (心境) ですが、ほんのわずかでもいいから近づきたいと思います──あるいは、生活を送るうえで、自分が どれほど墜ちている (ゆがんでいる) のかを常に意識していたいと思います。それが私の 65才になった心境です。

 
 (2019年 1月15日)

 


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