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Music helps not the toothache.

 
 ウィトゲンシュタインの書物は、僕の愛読書です。
 しかし、彼の書物を読んでいて、やっかいな点は、ああいう天才とつきあうと、天才が感じた「暗黒の世界」のなかにも引きずり込まれそうになる、という点です。

 ああいう天才的な人物は、天才と同じ程度の「虚無感」を抱いていて、夜なかに、静かな部屋で、ただ ひとり、考え事をしていると、ああいう天才の巨大な「虚無の世界」に引きずり込まれてしまいます。僕のような凡人が、ああいう天才の「虚無感」を、一気に、感じてしまうと、もう、現実の世界など、どうでもいいように感じてしまいます。

 そういう状態になったとき、唯一の救いは、クラシック音楽を聴いている、という点です。音楽を聴けば、虚無感が和らぎます。もし、クラシック音楽を聴いていなければ、僕の精神は、確実に、破滅していたでしょうね。

 ところが、「精神的な救い」となっていたクラシック音楽が、最近、「悲哀の世界」に僕を連れていこうとしています。たとえば、モーツァルトの音楽を聴いていると、(通俗的な悲しさとは違う) 「透徹した悲しみ」としか言いようのない「源泉の感情」を揺さぶってきます。

 ああいう美しい音楽を作った人が、現実の世界のなかで、どうして、生き続けていられたのか、不思議でならない。

 僕は、中学生・高校生だった頃、クラシック音楽を聴いても--授業のなかで、聴かされても--、退屈しか感じなかったけれど、今になって、クラシック音楽は、人類の財産だと思う。
 モーツァルトのピアノ・コンチェルトを愛聴しています。K.488 (ピアノ・コンチェルト第 23番)の第2楽章 (アンダンテ) を、特段、聴き惚れています。曲調は、長調ですが、第2楽章は、短調のような感じがします--この世の調べとは思えないほどの清冽な調べです。モーツァルトは、おそらく、精神破綻の間際に立っていたのではないでしょうか。

 そうそう、そういえば、ウィトゲンシュタインは、当初、自らを論理学者と思っていて、哲学者だとは思っていなかったそうです。述語論理を完成したラッセルですら--ラッセルは、ウィトゲンシュタインの恩師ですが--、ウィトゲンシュタインが作った論理学(命題論理)を論破することができなかったし、逆に、論破されていたそうです。そして、ラッセルは、論理学・哲学の継承者として、ウィトゲンシュタインを可愛がったのですが--まるで、息子のように可愛がっていたそうですが--、ウィトゲンシュタインは、ついには、ラッセルの世界と違う世界の哲学観を提示しました。
 ウィトゲンシュタインは、或る研究会で、ラッセルのプレゼンテーションを聴いて、以下のように言ったそうです。

 「ラッセルは、もう、哲学に対して、命を捧げなくなった。」

 そして、「冷笑」したそうです。
 この話を聞くと、身震いしますね。

 こういうふうな 「おのれに対して、きびしい」 人物を師として仰いだ僕の人生は、つらい人生になってしまいました。

 
 (2004年8月16日)


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