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Ars longa, vita brevis (Art is long, life short).

 
 僕は51歳です。51歳にもなれば、みずからの力 (知力、技術力) が、どのくらいに、「甚少」であるか、ということを、落ち着いて観ることができます。今後、以前の力を超える状態になることは、まず、ないでしょうね。

 僕が、T字形ER手法を着想した年齢は、30歳代のときであって--そのあとの10年のあいだ (つまり、40歳代には、) T字形ER手法を、整合的な体系とするために、改善してきましたが--、いま、50歳を越える年齢になって、30歳代のときに得た着想を超える新たな着眼が、もう、浮かばないでしょうね。

 人生のなかで、過去が増大し未来が減少して、みずからの力 (知力、意力、体力、技術力) が、確実に、落ちるしかない、ということを知るのは、つらい。肉体の老朽は、かならず、知力にも連鎖します。30歳代の頃、一年のあいだに、書物を、100冊ほど読むことができたのに、いまでは、老眼が進んで、書物を読めば疲れるので、ついつい、読書量も少なくなってしまいます。今年は、8月になっても、10冊しか、読破していない。

 人生にも lifecycle があるようです。
 50歳を過ぎてから、新たな--いままでの仕事とは、まったく違うような--仕事に就くことは、まず、ないのではないでしょうか。かりに、そういうことがあったとしても、いままでの仕事のなかで得たノウハウを転用できるように配慮して、転職するのではないでしょうか。
 雇うほうの企業も、50歳の初老を、20歳の青年と同じようには、絶対に、みなさないでしょう。

 さて、lifecycle があるということは、それぞれの年齢には、それぞれ、ふさわしい (あるいは、その年齢でしか やれない) 営みがある、ということですね。

 T字形ER手法に関して言えば、T字形ER手法が誕生する母体となったコッド論文を、僕が、20歳代のときに読んでいたとしても、はたして、「null」や「並び (半順序)」に対して、問題意識を抱くことができたかどうか、、、(できなかったでしょう、きっと)。なぜならば、それらの問題意識を得るためには、プログラムを作った場数と、事業過程に関する多くの確認例がなければならないから、仕事を覚えたての数年のあいだには、感知することができないでしょうね。逆に言えば、仕事 (技術) を覚えなければならないあいだには、仕事 (技術) の習得に専念しなければならない、ということです。
 みずからが歩んできた人生を振り返ってみれば、lifecycle のなかでは、途絶えもなければ、飛躍もない、ということに気づくでしょう。なぜなら、時は継続して流れ、無意味な現実などないから。

 20歳代・30歳代には、一所懸命に、仕事をして、ひたすら、読書をしてください。
 いずれ、歳をとれば、書物を読もうとしても、老眼になって、眼が疲れて、読みたい、という意欲がなくなるから。いま、できることを (いましか、できないことを)、よそ見しないで、いま、やってください。道元禅師は、よそ見しないで専念することを、「只管 (しかん)」というふうに--たとえば、「只管打坐」というふうに--、おっしゃいました。

 
 (2004年9月1日)


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