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Time is, time was, and time is past.

 
 みずからの人生を振り返って、30歳を過ぎてから、時が進むのを、非常に速かったように感じます。アウグスチヌスは、以下のように言っています。

  長い過去は長い記憶であり、長い未来は長い期待である。時間は心の拡がりである。

 アウグスチヌスの時間論は、(「告白録」のなかに記述されていますが、近代科学の物理学的時間論が出る以前では、キリスト教的な考えかたとして、) 最高の考えかたであり、西欧では、時間論に関して、アウグスチヌスの考えを超える論はない、とすら言われているそうです。

 近代科学では、「時間」を、4次元空間の1次元的現象として考えます。アインシュタインやホワイトヘッドが、それを示しました。僕は、アインシュタインの書物を読んでいないのですが、ホワイトヘッドの書物を読みました。ホワイトヘッドは、(アインシュタインとは違う視点に立って、) 「モーメント」概念を前提にして、4次元的な「時空的空間 (あるいは、時空的時間)」を提示しています (「科学的認識の基礎」のなかで、おおまかな考えかたが記述されています)。

 カルナップは、「空間論」のなかで、「空間」には、以下の3つがあることを整理しました。
 (1) 直感的空間
 (2) 形式的空間 (幾何学的な空間)
 (3) 物理的空間

 カルナップは、ホワイトヘッドの文献を読み込んでいたようです。

 現代の我々は、時計が身近にあって、いつでも、「時間 (時刻)」を知ることができますが、近世以前では、「時計」(時を打つ)は、教会・政庁の象徴でした。
 「時刻」には、アナログ表示とデジタル表示がありますが、(デジタル表示が、モーメントそのものを示すのに対して、) アナログ表示は、「時刻 (モーメントの進行)」を、距離として示します。そして、アナログ表示が、「直感的空間 (あるいは、直観的時間)」と「直感的空間 (あるいは、物理的時間)」を結ぶ役割をしているのでしょうね。

 我々が、普段の生活のなかで考える時間というのは、ほとんど、直感的時間でしょうね。直感的時間のなかでは、人生は、日々の生活が堆積した距離であり、逆に言えば、日々の生活は、人生という建物を作る構成物として考えられます。
 「長い未来が長い期待である」ならば、我々は、うっかりすると、日々の生活を顧みないで、一足飛びに、バラ色の人生を夢想するかもしれない。遠大な夢を抱きながら、かえって、日々の生活を、うかうかと暮らす虫のよさが、我々にはあるようです--いや、「我々」というふうに、一般化してはいけないのであって、「僕」というふうに、正直に綴るべきでしょうね。そして、「長い過去が長い記憶である」ならば、過去の「時間」を距離とみなして、振り返るのは、年老いた悲しさなのかもしれない。

 アナログ表示とデジタル表示を、適宜、切り替えながら、直感的時間をコントロールしなければならないのでしょうね。計画 (と統制) は、アナログ的に考えて--「時間」を距離に変換して、道筋を考えて--、実行は、デジタル的に--(計画どおりに進むことを前提にして、) 前後裁断して、一瞬ごと、集中力を注いで--考えたほうがよいのかもしれない。

 
 (2004年9月8日)


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