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You never know what you can do till you try.

 
 僕は、心理学を学習したことがないので、「精神」について、巧みに、まとめることができないのですが、「精神」そのものは、進路をもたない力だし、「身体」と「精神」は一如だ、と思っています。

 「精神」が、もし、「知・情・意」を まとめる概念であるのなら、「精神」は、「反応と作用」という現象として現れるでしょう。もし、「精神」そのものが、進路をもたない力だとすれば、外(そと) から及ぼされた作用が、進むべき道を示してくれたら、おおかた、満足するのではないでしょうか。

 たとえば、「計画」を作成したら--これから、それを実現するために、地道に、「身体」を使わなければならないのだけれど--、計画を作成した時点で、もう、満足してしまう傾向があるようです。
 行為のみが、精神を具体的な形にするし、計画を具体的な形にするのですが、逆に、「計画すること」 と 「途中で止めること」は、とても、簡単な行為のようです。

 「考える」という営みは、なんらかの「身体的な」形として現れるようです。たとえば、彫刻として、西洋では、「考える人」 (ロダン作) があるし、東洋では、(弥勒菩薩の) 「半跏思惟」像があります。逆に、思考を停止した「身体的な」形が、命令を仰ぐ際に取る「直立不動」の姿勢でしょうね--僕は、いかなる意味でも、「直立不動」の姿勢を嫌悪しています。

 「精神」が、「反応・作用」と切り離すことができないなら、もし、「精神」を、一言で記述すれば、「注意力の質」と云っても良いでしょう。「注意力の質」が、つよい形として現れた現象が、「集中力」でしょうね。

 集中力は長続きしない。集中力には、つねに、緩急のリズムがあるようです。
 したがって、集中力は、反復しながら、合計値として、示される力です。集中力を、断続しながら巧みに使うには、集中力の現れと 次の集中力の現れとのあいだには、「無用のようにみえる」無為の休息がなければならない。

 「集中力がない」と、嘆く人たちがいますが、「集中力がない」のではなくて、集中力を活かすための「無為の」休息を、巧みに作ることができない、ということではないでしょうか。

 考えることに疲れたら、試しに、小一時間ほど、早足歩行をやってみてください--ふつうの歩きかたに比べて、2倍ほどの速度で、小一時間、歩いてみてください。たっぷりと汗が出るくらい歩いてみてください。きっと、爽やかな気持ちになるでしょう。そして、シャワーを浴びて、再び、考えることに集中すれば良いでしょう。
 精神の疲れを、肉体を使って癒せば良いでしょう。

 
 (2004年 9月16日)


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