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Enough is as good as a feast.

 
 私は、じぶんの考えを、はっきりと言明するようになってきた。
 自信か。違う。自信などない。まったく逆に、生活に対する不安を感じている。 では、不安を軽減するための自己保身ではないか。つまり、じぶんの力が道草を 喰うほどの余力がなくなり、じぶんの領域を守りたいという....。 じぶんの限界を感じはじめたのではないか。

 事を成就するには、当然に払うべき辛労を、私は、この頃、持続できなくなった (あるいは、しなくなったと言ったほうが正確である)。そして、このまま、一介 のサラリーマンで終わるのかという不安感および焦りを、時々、強く感じる。 それでもよいではないか、否、そのほうがよいではないか、と感じるようになった。

 確実な収入を得て、家庭を作り、平凡な生活を守る--この作業は、大きな営みであり、 逆に、じぶんの力を過信して、実現できそうにもない夢を追い求めるのは、まるで、メフィスト に じぶんの魂を売ったと同じように、野心にとりつかれた妄想ではないかと感じる気持ちが、 一寸、ある。

 数年前の私が感じていた生活に対する不安感は、これとは違っていた。
 じぶんの思考と向かいあう省察(それが、実体験よりも先に、言葉が生活の概念を形成してはいたが) を試みるあまり、じぶんは実生活に適応できないのではないか、という不安感であり、 当時の意識のままで歳老いたときに、若い人たちが台頭してきて、私の力を 超えようとしたら、私は、じぶんの負けを認めることができないで、退きたくはない、 という不安感であった。

 
 (2005年 3月 8日)


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