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To make a hole in the water.

 



 スピノザ と ライプニッツ は、同時代に生きた哲学者たちである。そして、二人の生きかたは対照的であった。二人は、(スピノザ が亡くなる一年ほど前に、) いくどか会談している。

 二人の哲学上の共通点は、「神」 が事物全体のなかで どういう場所を占めるのかという点にあった。二人とも、デカルト が示した指導原理に則って思考を進めたが、対照的な意見を導き出した。スピノザは、「自然 (全体)」 を 「神」 とし、ライプニッツ は、「モナド (自然の真の アトム として、事象を表出する形而上学的個体で、不生不滅の性質をもつとされる)」 を考えて--「神」 も 「モナド」 であって--、個々の 「モナド」 は自立的・自律的であるが、「神」 の 「モナド」 は、ほかのすべての 「モナド」 に対して 「harmonie preetablie (あらかじめ調和されていること)」 を計ると考えた。

 二人とも、科学と 「神」 が両立する 総体的な実存観を作ろうとしていた。スピノザ は、代表作 「エチカ」 を幾何学的推論で記述した。個々の テーマ を論証した文では、数学の証明式のように、末尾に 「QED (証明終わり)」 という ことば を使っている。ライプニッツ は、まとまった大作を執筆しなかったが、数多い論文を執筆して、近代・現代の数学に影響を及ぼしたほど--たとえば、微積分法の記法は、現代でも、ライプニッツ の示した記法を使っているが--、数学の天才であった。哲学・数学の専門家のあいだでは--専門的な技術という点から判断すれば--、スピノザ は、「素朴」 に写るかもしれない。

 デカルト が 「精神と身体」 という二元論を示したの対して、スピノザ は、「精神と身体は不可分である」 と考えて、観念体系を幾何学的手法を使って 「演繹的に」 証明した。「演繹的」 ということは、「(個人の) 自由意志」 と相いれない。スピノザ にとって、「憎悪・怒り・恐怖」 などの感情は--「エチカ」 のなかで記述されているが--、われわれの外にある事物が作用して起こる受動的感情であった。いっぽう、現実の世界で起こっている事態を認識することが能動的感情とされた。そして、能動的感情が作用して、受動的感情 (束縛) が少なければ少ないほど、われわれは、じぶんに近づくと、かれは考えた。
 実際、かれは、そのように生きた。かれは、気質として、孤独を愛して、ひとりで静かに研究を進めた。ハイデルベルグ 大学の教授職を提示されたが、かれは固辞して、眼鏡・顕微鏡・望遠鏡の レンズ を研 (みが) いて生計を立てた。かれは、以下のように綴っている。

       貪欲、野心、贅沢は、苦患のなかに数えられてはいないが、
       明らかに狂気の一種なのである。

 世間的な成功を想う気持ちは、かれには、微塵も、なかった。かれは、超俗・孤高・禁欲の生活を送り、高貴で誠実だった。かれの人生そのものは、かれの哲学と一致していた。そのために、かれは人々から賞賛され尊敬された。

 いっぽう、スピノザ とは対照的に、ライプニッツ は、宮廷に仕える外交官で、いつも旅していたし、訪問した国々で丁重にもてなされていた。科学の専門家によれば、運動 エネルギー という概念を作ったのは ライプニッツ であるとのこと。微積分法に関しては、ニュートン と ライプニッツ は、それぞれ、べつべつに研究していて、ニュートン が先んじていたが、ライプニッツ のほうが先に公表したので、ニュートン との 「本家争い」--どちらがさきに考え出したかという争い--が有名である。ライプニッツ は、21歳のとき、教授職を提示されたが、断った。断った理由は、スピノザ と反対の理由であって、ライプニッツ は実社会で活躍したかったそうである。そして、かれは、人生のほとんどを、ハノーヴァー 宮廷で、歴代の公爵家に仕えて過ごした。

 ライプニッツ は、忙しい政務のあいまに、哲学・数学の研究を進めて、数多い書物を執筆した。かれの書物は、論文形式で短編が多い。しかも、かれの著作の多くは、興味深いことに、生前、公表されていない。

 「言明の真偽」 に関して、今日、われわれが常識として使っている「『分析的言明 (トートロジー)』 と 『総合的言明 (事実と対比して真偽がわかる言明)』」 を あきらかにした人物は、専門家によれば、ライプニッツ が最初の人物であるとのこと。

 ライプニッツ は、「神」 のみが必然的に存在して、ほかの一切の モノ の存在を可能的と考えた。すなわち、「神」 が可能的世界 (可能的事物) に存在を割り当てると。

 
 さて、私は、スピノザ にも ライプニッツ にも惹かれている。スピノザ の気質・視点・考えかた・生きかたは、ウィトゲンシュタイン のそれらに似ているように思う--ただし、私は、二人の哲学説を丁寧に対比していないので、そう感じるのは、単なる印象にすぎないが。ゲーデル は、晩年、ライプニッツ を愛読していたそうである。

 私は、「エチカ」 を読んでみて、スピノザ が観念体系を記述するために使った幾何学的手法 (定義・公理・定理の体系) を納得してはいない。否、かれが、感性を対象にして そういう手法を使ったことに対して、私は嫌悪さえ感じている。「エチカ」 を読んで、その証明法のなかから、専門的な技術として、なんらかの哲学的道具立てを得られるかと問えば、哲学の シロート である私でも 「否」 と応える。この点では、スピノザ は、ライプニッツ に比べて、哲学・数学の専門家たちのあいだで ウケ が悪いかもしれない。しかし、「エチカ」 を読み終えて、断然たる・高い気品を感じる。そして、私は、その気品に惹かれている。

 数学史に名を遺した天才の ライプニッツ は、スピノザ と対談して、「エチカ」 のなかで使われた幾何学的手法が 「素朴」 であることを見て取ったかもしれない [ 私は、あくまで、推測で言っているのが、、、。] それにもかかわらず、ライプニッツ は、スピノザ の視点・考えかたのなかに、「神」 に対する確実な 「信」 を観ていたのではないかと私は想像したい--それが、ライプニッツ の想う 「神」 とはちがっていても。こういう言いかたをしたら、哲学・数学の専門家に怒られるかもしれないけれど、ライプニッツ が示した 「モナド」 概念は、かれが発明して後世に影響を及ぼした 「確実な技術」 に鑑みて、私には、「素朴」 に思われるのだが、、、。

 私は、システム・エンジニア として、新たな技術を作った ライプニッツ に憧れるいっぽうで、スピノザ の敬虔な生きかたにも惹かれている。
 さて、文学青年の気質をもった システム・エンジニア が雲水の生活に憧れながらも、実社会のなかで仕事しているというのは、精神分裂症と云っていいのかもしれない、、、。そういう生きかたが破綻しなければいいが、、、。

 
 (2007年 4月 8日)


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