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High buildings have a low foundation.

 



 「『情報化社会』 では、情報が溢れていて、しかも、仕事が高度に専門化されて、現代人は忙しいのだから、意見を述べるときには、『要するに』 というふうに、簡略に述べるほうが良い」 という決まり文句があるようですが、そんな態度で ものごと を適切に判断できないことくらい、少々、立ち止まって考えてみればわかることではないでしょうか。

 正しい意見に出会うと、私は、いつも思うのだけれど、たしかに、結論そのものは、一文でも綴ることのできる単純なことなんだなあ、と。ただ、この単純なことを実現しようとしたら、頗 (すこぶ) る難しい。その単純さに至るまでの膨大な量の知識・体験が前提としてあるから。

 「要するに」 という単純な思考しかできないひと というのは、たぶん、単純な結論を、そのまま、暗記して、そして、その単純な結論を変形して、みずからの意見を作ろうとするひと なんでしょうね。正当な やりかたは、その単純な結論に至るまでの道を遡及して、原点にもどって、改めて再体系化しなければならないのに、「要するに」 という単純な思考しかできないひとは、単純な結論 (あるいは、キーワード) のみを対象にして、単純な結論の背後にある事実・証明を無視して、みずからの都合の良いように憶測して、終 (つ) いには、正しい結論を歪曲した亜流を作ってしまう。こういう せわしない やりかたは、歩くことを覚える前に、走ることを覚えようとした悲劇でしょうね。

 ものごと を学習するということは、学習したことを 「再現」 することです。そして、それから、さまざまな工夫をすれば良い。この 「再現」 を はしょって、新たな工夫などできる訳がない。

 フルトヴェングラー (20世紀の伝説的な音楽家) 曰く、

    全体を砕いて溶解し、またそれによって、私たちの音楽の場合を形象的に言えば、
   始源的な心的状況を再創造する、言わば創造に先行する混沌を再建し、その中から
   はじめて全体を新たに造形し直す、ただそれだけが作品を本源の形体において再現
   し、真に新しく創作することを可能にするでしょう。

 
 (2007年 5月 8日)


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