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A short cut is often a wrong cut.

 



 荻生徂徠の著作 「『訳文筌蹄 (せんてい)』 の題言」 では、講義法・読書法・作文法が述べられています。読書法について、徂徠は、以下のように述べています。(参考 1)

    まして 「道」 の理は精微なもので、初学の者には適当でない。つかみどころのない
   ことから、憶測も生まれやすくなる。歴史は事実に跡づけられているので、拠 (よ) り
   どころがある。だから まず歴史を読ませ、理解できるかどうかは問題とせず、順を追っ
   て精読し、一つの書物をあげさせる。もし全体の意味がわからなかったら、さらに二度
   三度と読ませる。学者の欠点は、頭から全部理解しようとするところにあるので、(略)
   書物の中に ゆったりと浸りこむことができない。こんな人は学問をする器 (うつわ)
   ではないのだ。だから絶対に解説をしてやってはならないが、一方では疑問のある
   箇所を すぐ忘れてしまうことも許さない。(略) 疑問を蓄積しつつ読書し、巻数を積ん
   で行けば、おのずから さっぱりと氷解するものである。

    (略)読書では早く和訓から離れたい。これこそ真の読書法である。初めのうちは
   努力が容易でないように見え、たいへんな回り道のようだが、実は まっすぐな近道で、
   これ以上のものはない。

 徂徠の言いたいことは、箇条書きにしてみれば、以下の諸点です。

  (1) 「原典」 を読む。
  (2) 頭から全部理解しようとしないで、書物の中に ゆったりと浸り込む。
  (3) 全体の意味がわからなかったら、二度三度と読み返す。
  (4) 疑問点を忘れないでとどめて、ほかの書物を 多数 読む。

 当時 (江戸時代--「訳文筌蹄」 が出版された年を鑑みれば、約 300年前と思って下さい--)、儒学を究め・博学で知られた徂徠の読書法は、特殊な やりかた をしていたのではなくて、きわめて、単純ですね。さて、「多忙な現代」 では、「てっとりばやい・わかりやすい」 ミーハー 本が氾濫していますが、どうも、徂徠の やりかた と相反するようですね。現代でも、「正しい」 読書法は、徂徠の やりかた と同じであると私は判断します。
 亀井勝一郎氏は、以下の アフォリズム を遺しています。(参考 2)

    自分の働いた金で買ったものには独自の魅力がある。たとえば同じ本でも、人から
   もらった場合と、自分で買った場合とでは、読むとき、身の入れ方ちがうであろう。
   このことは、愛情は額 (ひたい) に汗した労働力と不可分のものであることを物語って
   いる。

 読書を通して養われる知性も書物に対する愛情を抜きには語れないでしょう。したがって、「知性は額 (ひたい) に汗した労働力と不可分のものである」 と言って良いでしょうね。

 


(参考 1) 「荻生徂徠」、尾藤正英 責任編集、中公 バックス 日本の名著、中央公論社、
    249 ページ - 250 ページ。引用した訳文は、前野直彬 氏の訳文である。

(参考 2) 「思想の花びら」、大和人生文庫 E-25、125 ページ。

 
 (2007年 6月 8日)


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