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Give me a laundry-list and I'll set it to music. (Gioacchino Rossini)

 



 私は、仕事している最中、いわゆる 「ながら族」 です。クラシック 音楽を聴きながら、あるいは、NHK の 「ラジオ 深夜便」 を聴きながら、仕事をしています。クラシック 音楽は、ほとんど、まいにちのように聴いています。音楽のない生活を私は想像することができない。いまも、鮫島有美子さんの歌を聴きながら、この エッセー を綴っています。

 「ラジオ 深夜便」 を聴いていたとき、女性 アナウンサー (anchor) の (幾人かの) 声が非常に セクシー で、おもわず、仕事を止めて、聴き入ることが、ときどき、あります。彼女たちは、プロフェッショナル な アナウンサー ですから、耳障りの良い 「声のみで」 聴いている人たちを魅了する訓練をされているのですが、私は、かならずしも、すべての アナウンサー の声に魅了されている訳ではない。私好みの声質があるようです。私が聴き惚れた声の持ち主は、スズキ・アサコ さんです。

 私は、クラシック 音楽のなかで、オペラ が好きなのですが、オペラ 歌手のなかにも、「好み」 の歌手がいます--たとえば、ホセ・カレーラスとか。

 われわれは、読書のとき、ふつう、黙読しますが、「思想」 を読むときに、頭で読むだけでは十分に理解できないのではないかと、ときどき、思うことがあります。「思想」 は 「耳で聴かなければならない」 のではないか、と思う。「朗読」 は、なにも、文学作品に限ったことではないでしょうね。およそ、「思想」 には--もし、それが 「思想」 に値するのなら--、詩魂が宿っているはずです。
 ヴァレリー (詩人) は、以下のように言っています。

    思想は、果実中の栄養価のように、詩句の中に隠されていなければならない。
    一つの果実は栄養価であるが、たんに美味な物としか見えない。人は そこに
    味覚の歓びのみを感ずるが、人が受けるものは滋養分である。実に美味だと
    いう恍惚感が、この目に見えない栄養物を被い包むのである。

 ちなみに、ヴァレリー は、数学が得意でした。

 
 (2007年 8月16日)


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