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The spirit is willing, but the flesh is weak. (Matthew 26-41)

 



 三島由紀夫 氏は、かれの著作 「精神の不純」 のなかで、以下の文を綴っています。

     近頃必要があつて記紀を読み返した。軽皇子が父天皇の寵姫
    衣通郎女と通ずるあたりの簡潔な叙述に、古代のまばゆい肉体
    の純粋さがあふれてゐる。恋愛を全く肉体的な衝動としてとらへ
    て、肉体の力一つで見事に浄化し切つてゐる。精神の助力を
    たのんでゐない。(略)

    いはゆる文学の純粋さといふことも肉体の純粋に尽きるのでは
    ないかといふことだ。日本の作家では、志賀直哉氏と川端康成氏
    がこの肉体の純粋をゑがきえた両極の作家として考へられる。
    (略) それが両氏の作品に、一見対蹠的でありながら深く共通
    した異常な清潔さを与へるのである。

 この文を読んで、私は 「なるほどなあ」 と思いました。私が 「なるほどなあ」 と思ったのは、この文を読んだときに、川端康成 氏の作品 「眠れる美女」 を思い起こしたからです。「眠れる美女」 は、川端康成 氏の作品のなかで、私が一番に好きな作品です。この作品は、最近、或る新聞に記載された エッセー のなかで 「老後の性」 を描いていると綴られていましたが、作品の主人公が 「老人」 であっても、作品が描いた テーマ は 「老後の性」 ではないことぐらい文学を読んでいるひとなら直知できるはずです──私が この作品を読んで感嘆したのは 10代の終わりであって、老人の身になって感応したのではなかった。そして、私は、この作品に魅せられて、後年、古本店で、この作品の作家自筆原稿の 「影印」 を買いました──それほどまでに、私は、この作品の ファン です。

 川端康成 氏の作品では、「雪国」 「千羽鶴」 「山の音」 「みづうみ」 のなかにも、三島由紀夫 氏が評した点を感じることができます。そして、永井龍男 氏の短編小説のいくつかにも、私は同じ感を味わいました。ただ、川端康成 氏の作品と永井龍男 氏の作品を較べたときに、川端康成 氏の作品には、なんらかの 「冷徹なまでの透明感」 が後景になっていて──そして、その ひんやりした様相のなかにも、なにかしら ひとの生温かさが点景になっていて──、それらが融けあうように精緻に刻まれている [ この言いかたは適切でないかもしれない、、、それらを融かすように精緻な筆が視点 (目線) を移す、と言ったほうがいいかもしれない ] という印象を私は感じます。永井龍男 氏の小説には、小津安二郎監督の映画作品に似た趣を感じました。

 
 (2009年 1月 1日)


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