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You are a jew, and I am a Samaritan... (John 4-9)

 



 三島由紀夫氏は、かれの著作 「裸体と衣裳」 のなかで以下の文を綴っています。

    小説家は厳密に言ふと、認識者ではなくて表現者であり、表現を
    以て認識を代行する者である。作家が小説を書くことにより、表現
    してゆくことにより、はじめて認識に達するといふ言い方は正確
    ではない。作家の狡猾な本能は、自分に現前するものに対して、
    つねに微妙に認識を避けようとするからである。殺して解剖しよう
    とする代りに、生け擒りにしようと思ってゐるからである。

 この文を読んで、「なるほどなあ」 と私は思いました。
 私は、若い頃 (高校生の頃) から文学書を愛読してきましたが、文学が意図している 「表現」 と、私の仕事である 「モデル」 を作ること (現実的事態の形式的構成) のあいだで──言い換えれば、記述に関する両極のあいだで──、私は、つねに揺れてきたように思います。ただ、「文学青年」 が陥りやすい 「表現の甘さ」──「弱さ」 ではなくて、あえて、「甘さ」 と綴りますが──を殺すには、形式的構成の厳しさが抑止力となったのも事実ですし、逆に、モデル を適用範囲を超えて使うことに対して文学が抑止力になったことも事実です。私は、どうも、この ふたつのあいだで際どい綱渡りをやっているようです。

 亀井勝一郎氏は、以下の断想を遺しています。(参考)

    私は美を愛し、信を尊重してきた。私は宗教に対しては美を密輸入
    し、美に対しては宗教を密輸入している。この貿易によって私の得
    た利益は、「柔軟心」 ともいうべきものであったが、同時に失った
    ところが非常に大きいように思われる。(略)

 

(参考) 「思想の花びら」 (大和書房) のなかの 「断想」 に収録されている。

 
 (2009年 2月 1日)


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