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The spirit is willing, but the flesh is weak. (Matthew 26-41)

 



 三島由紀夫氏は、「個性の鍛錬場」 という エッセー のなかで、かれが理想とする文芸雑誌について述べています。その エッセー のなかに次の文があって、私の興味を惹きました。

     評論については、いろいろ註文がある。私の雑誌では、大きすぎる
    問題を扱った評論はお断りする。大問題はすべて謝絶する。大きな
    問題などといふものは、品のわるいものである。それから文体をもた
    ない評論もお断りする。評論はまづ文学だからである。かくて私の
    雑誌は、エッセイ を大いに繁栄させようと志す。一例が ホフマン
    スターン の 「チャンドス 卿の手紙」 のやうな エッセイ である。

 私は、ホフマンスターン のエッセー を読んでいないので、かれの エッセー が どういう テーマ を どういう文体で綴っているのかを知らないので、日本の文芸評論家を対象にして三島由紀夫氏の雑誌に寄稿できるかどうかを 「想像」 してみましょう。私が愛読してきた小林秀雄氏・亀井勝一郎氏を引きあいに出してみれば、小林秀雄氏は三島由紀夫氏の意にかなっても、亀井勝一郎氏は謝絶されるかもしれないですね。和辻哲郎氏・加藤周一氏も拒絶されるかもしれない。唐木順三氏・中村光夫氏は歓待されるかも [ 唐木順三氏は、境界線上かなあ、、、私が唐木氏を歓待 グループ に入れた理由は、「伝統文化の切り捨てが近代日本の精神荒廃を生んだので、『型』 を重視する中世文化へ」 かれが回帰していった点を考慮したからですが、、、亀井勝一郎氏も その点では同じ傾向にあるのですが、亀井氏は信仰・愛・死などの 「大きな問題」 を扱っているので、謝絶 グループ に入るのは確かでしょうね ]。こういう 「想像」 は、無責任な・他愛もない気儘な憶測ですが、読書の愉しみの ひとつでしょうね──尤も、こういう 「想像」 は、読み手の勝手気儘な空想であって、文壇を知っている人から観れば、私の 「想像」 は実態から外れているかもしれない。

 亀井勝一郎氏は、文学について、以下の断想を遺しています。

    ある巨大な思想を、自分の体内にひきずりこみ、無理にでも体内を
    通過させようとしている文学者に私は感動する。文学上の壮観とは、
    身にあまるような大思想が、嵐のように小さな個体を通過してゆく
    ときの情景である。二葉亭四迷と北村透谷が、いまも絶えずかえり
    みられるのは、ここでの未完了の壮観のためではないか。

 亀井勝一郎氏と三島由紀夫氏は、それぞれの作品を読んだ私の印象では、極めて近い性質をもっていると思われるのですが、どうやら、文学観において、ふたりには隔たりが大きいようです──隔たりの原因となっているのは、たぶん、「フォルム 観」 と 「宗教観」 ではないかしら。この ふたりは、太宰治氏をあいだにして両極に立っています──亀井勝一郎氏は太宰治氏と親しかったけれど、三島由紀夫氏は太宰治氏を毛嫌いしていました。亀井氏は、文学のなかに 「思想」 性を尊重していますが、三島氏は、それを注意深く排除して具象性──たとえ、それが フィクション として構成されていても──を 「文体」 で刻もうとしました。そのために、たぶん、武者小路実篤氏の作品に対する評価において、ふたりは両極に立つでしょうね [ 亀井氏は高く評価し、三島氏は評価しないでしょうね ]。勿論、こういうふうに意見が両極に割れるとしても、あくまで、「文学観」 に根ざした態度の問題であって、いささかも文学者としての力量の争点ではないことをわれわれ読者は弁 (わきま) えているべきでしょうね。

 三島由紀夫氏は、以下の点を断言しています。

    生活で解決すべきことに芸術を煩わしてはならないのだ。

 
 (2009年 3月 1日)


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