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Wasn't it like a fire burning in us when he talked to us... (Luke 24-32)

 



 三島由紀夫氏は、「個性の鍛錬場」 という エッセー のなかで、かれが理想とする文芸雑誌について述べています。その エッセー のなかに次の文が綴られています。

     ──次に私は座談会を放逐したい。今日の雑誌で座談会と称する
    ものには、人間の対話らしいところはほとんどない。私は自分で
    たびたび出て知つてゐるが、動物園のはうばうの檻の中で、いろんな
    禽獣が勝手放題にわめいてゐるやうなものである。お互ひに相手の
    言ふことなど聴いてゐないし、もし聴いてゐても、揚足をとるか茶茶
    を入れるためにきいてゐるのである。かういふ代物は、出席者と読者
    の品性を二つながら堕落させるから、私の雑誌では採用しない。
    人の話に殊勝げに耳を傾けながら、その実、どうやつて自分の論旨
    に相手を引張り込まうかと、策を練つてゐる気持は情ないものである。

 雑誌に限らず、この類の テレビ 番組が多いですね。
 私が 「討論会」 などの演台に立たない理由を、かつて、本 ホームページ の 「佐藤正美の問わず語り (『ひとり ディベート』)」 (86 ページ) で述べましたが、私が 「討論会」 を嫌う理由は──その 「討論会」 が大衆の ウケ を狙ったのであれば──、まさに、三島由紀夫氏が指弾している理由と同じです。

 いっぽうで、私は、「対談集」 として気に入った書物を いくつか所蔵しています。たとえば、小林秀雄氏・岡潔氏の 「人間の建設」 や、広中平祐氏・小澤征爾氏の対談集や、三島由紀夫氏・福田恆存氏の対談など。すぐれた知性どうしの対談は、やっぱり すばらしい。

 対談の醍醐味は、相手との かけあい のなかで、その場で考えるという点にあるでしょうね。自説を披露するだけなら、対談という形式でなくても宜しい。
 亀井勝一郎氏は、以下の断章を遺しています。

    こみいったことについて、口先で勝つことほど その人間の品格の
    低さを示すものはない。

 こみいった テーマ を正確に扱って意見を述べるには──しかも、複数のひとが意見を交流するためには──、そもそも、多大な時間がいるのですが、1時間程度の対談では、所詮、意見の交流などできっこないでしょうね。しかも、そういう こみいった テーマ を バッサバッサ と 「快刀乱麻を断つ」 ように扱うのは、決して、すぐれた知性の証ではない。狼藉にすぎない。相手に対して、なにを言ってるんだと云いたいね。私なら、「無礼者 !」 と相手を怒鳴るでしょうね。そういう連中に対して知性を守るということは、自分の自尊心を守ること以外にないでしょうね。

 
 (2009年 3月 8日)


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