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...but my mind has no part in it. (1 Corinthians 14-14)

 



 2009年 1月16日付けの 「反文芸的断章」 のなかで、私は以下の文を綴りました。

    三島由紀夫氏は、デビューしたての頃、雑誌 「人間」 の編集長
    木村徳三氏から技術上の注意を色々とされたそうで、後に、三島氏
    は、「この小説の稀代の 『読み手』 から、どれだけ力づけられたか
    わからない。初期作品 『夜の支度』 や 『春子』 等は、ほとんど
    木村氏との共作と言つても過言ではないほど、氏の綿密な注意に
    従って書き直され補訂されたものである。思ふに新進作家と文芸
    雑誌の編輯者との関係は、新人 ボクサー と老練な トレーナー と
    の関係の如くあるべきで、木村氏を得た私は実に幸運であつたが、
    かういふ幸運を得た作家は私ばかりではない」 と綴って木村氏に
    感謝しています。また、木村氏は三島氏に対して、「堅い書物を
    多く読みなさい」 と助言したそうで、三島氏は その助言に従って、
    「堅い書物」 を多数読んできたそうです。

 上述した文の最後の文は──すなわち、「木村氏は三島氏に対して、『堅い書物を多く読みなさい』 と助言した」 という文は──私の 「記憶違い」 であって、三島由紀夫氏の 「私の遍歴時代」 を読み直したときに、以下の文を見つけました。私の引用 ミス を訂正いたします。

     当時朝日新聞の出版局長をしてゐた嘉治隆一氏が、父の旧友
    である縁故から、私を何やかやと引き立てて、面倒を見て下さり、
    (略)
     嘉治氏は冷静きはまる、しかし実に親切な小父さんで、のちに
    「鹿鳴館」 の執筆の折りも、一方ならぬお世話になったが、いつも
    私に訓戒をたれて言ふには、
    「小説家が長もちする秘訣は、一にも勉強、二にも勉強だ。広く見、
    深く究めることが大切で、毎日少しづつでもいいから、習慣的に
    古典か原書を読みつづけるやうになさい。」
     なかなか古典や原書といふわけには行かないが、小説家稼業が
    どんなに忙しくなつても、毎日少しづつでも、小むづかしい本に
    取り組む習慣をつづけてゐるのは、こんな嘉治氏の忠告のおかげ
    である。そしてこんな忠告は、案外同業の先輩は、気恥づかしさ
    から、与へてくれないものである。

 三島由紀夫氏は、デビュー した頃から、技術上、 古典主義を標榜していたのですが──そして、みずからの浪漫派傾向を意識的に抑えようとしていたのですが──、私が かれの作品において感じる性質は、「古典派的浪漫主義」 ではないかという点です。音楽家に喩えれば、ブラームス の作品に近いと私は感じています。すなわち、ブラームス が浪漫派の時代に生きながらも、古典派的な テクニック を使って作品を構成したことに近い、と。三島氏の作品 (の性質) が 浪漫派と古典派で揺れている次第は、「私の遍歴時代」 のなかに詳しく綴られています。かれは、みずからの古典主義的傾向の帰結として、古代 ギリシア に範を仰ぎました。かれは、「私の遍歴時代」 の中で以下の文を綴っています。

     私はあこがれの ギリシャ に在つて、終日ただ酔ふがごとき
    心地がしてゐた。古代 ギリシャ には、「精神」 などはなく、
    肉体と知性の均衡だけがあつて、「精神」 こぞ キリスト 教の
    いまはしい発明だ、といふのが私の考へであつた。もちろんこの
    均衡はすぐ破れかかるが、破れまいとする緊張に美しさがあり、
    人間意志の傲慢がいつも罰せられることになる ギリシャ の悲劇
    は、かかる均衡への教訓だつたと思はれた。ギリシャ の都市国家
    群はそのまま一種の宗教国家であつたが、神々は人間的均衡の
    破れるのをたえず見張つてをり、従つて、信仰はそこでは、キリ
    スト 教のやうな 「人間的問題」 ではなかつた。人間の問題は、
    此岸にしかなかつたのだ。
     かういふ考へは、必ずしも、古代 ギリシャ 思想の正確な解釈
    とは言へまいが、当時の私の見た ギリシャ とは正にこのやうな
    ものであり、私の必要とした ギリシャ はさういふものだつた。
     私は自分の古典主義的傾向の帰結をここに見出した。それは
    いはば、美しい作品を作ることと、自分が美しいものになること
    との、同一の倫理基準の発見であり、古代 ギリシャ 人はその鍵
    を握つてゐたやうに思はれるのだつた。

 そして、かれは、この興奮のなかで 「潮騒」 を執筆したのですが、かれの言を そのまま引用すれば、「『潮騒』 の通俗的成功と、通俗的な受け入れられ方は、私にまた冷水を浴びせる結果になり、その後 ギリシャ 熱がだんだんとさめる キッカケ にもなつたが、これは後の話である」 とのこと。「私の遍歴時代」 の最終文で、かれは、みずからの浪漫派的性質を以下のように吐露しています。

     そして早くも、若さとか青春とかいふものは ばかばかしいもの
    だ、と考へだしてゐる。それなら 「老い」 がたのしみか、と言へ
    ば、これもいただけない。
     そこで生まれるのは、現在の、瞬時の、刻々の死の観念だ。
    これは私にとつて真にまなまなしく、真に エロティック な唯一の
    観念かもしれない。その意味で、私は生来、どうしても根治しがたい
    ところの、ロマンチック の病ひを病んでゐるのかもしれない。
    二十六歳の私、古典主義者の私、もつとも生の近くにゐると感じた
    私、あれはひよつとすると ニセモノ だつたかもしれない。
     してみると、かうして縷々と書いてきた私の 「遍歴時代」 なる
    ものも、いささか眉唾物めいて来るのである。

 「私の遍歴時代」 は、昭和 38年 8月に脱稿されていて──私 (佐藤正美) が 10歳のときです──、三島氏が 30歳末の頃に執筆した作品です。その年の 2年前 (昭和 36年) に、かれは 「憂国」 を執筆しています。そして、昭和 41年に 「英霊の声」 を執筆しています。かれは、自衛隊に体験入隊していました。「私の遍歴時代」 の最終文で、かれは、「現在の、瞬時の、刻々の死の観念だ。これは私にとつて真にまなまなしく、真に エロティック な唯一の観念かもしれない」 と綴っていますが、かれは 「葉隠」 に共感していました。「観念」 などは、かれには存在しなかったのであって、かれにとっては、「観念」 は そのまま 「実在」 していなければならなかったのでしょう。そして、昭和 45年、かれは自衛隊に乱入して蜂起を訴えましたが実現できず、割腹自殺を遂げました。この割腹自殺について、世間では様々な 「解釈」 が出ましたが、割腹自殺の真意は本人の胸のうちにあって、われわれが憶測しても外してしまうでしょう。三島氏が割腹自殺をした一報を友人から聞いたとき直ぐに、私は、三島氏が和室において薄暗い明かりの中で真っ白な 「死に装束」 を纏って割腹したと想像しましたが、事実は違っていました。私は、かれの割腹自殺に対して、どうこう 「解釈」 するつもりはないのですが、かれが福田恆存氏との対談で、以下のように述べたことは強烈な印象になって私の記憶に遺っています。

    ぼくは クーデター が法的にあり得ないと思ふんですよ。といふ
    のは、戒厳令がなくて、非常事態法がなくて、憲法停止の条項が
    なくて、クーデター を法的に ジャスティファイ (正当化) する
    ものがない。やつぱり クーデター をやるためには、戒厳令を
    こつちに引張り込まなきやならない。昔の憲法ならば非常大権が
    あつたから クーデター をやつた上で戒厳令をしく。クーデター
    を一たんやれば、あとは法的に、オートマティック にできるん
    です。それは北一輝なんかが考へたことで、三年間の憲法停止、
    その間の言論統制その他やるでせうが、しかしいまはね、まづ
    クーデター やつたら、その日に非常事態法をつくらなきやなら
    ないんですよ。ぼくは、かういふ面白い国はないと思ふ。万々一
    の可能性といふものに対する法的規制が何もない。ですから、
    クーデター が起れば、完全な ディスオーダー (無秩序) です
    よね。

    革命ですよ。クーデター とは言へない。現体制下において
    クーデター を正当ならしめる法的規制がないんですよ。帝国憲法
    にはそれがあるんですね。二・二六の目のつけどころですよね。
    しかし今はそれもないんですよ。錦の御旗 (みはた) がない。
    その錦の御旗がないといふところが、つまり、生死の問題にも
    からまつてくるんで、何のために死ぬとか、何のためにやるか、
    といふことの根本問題にかゝはつてくると思ふんですね。たとへば
    クーデター といふのは、憲法改正のための クーデター だつて
    あり得るだらう。それは理性的な クーデター だつて考へていい
    でせう。理性的な クーデター の法的根拠がないぢやないですか。

 
 (2009年 4月 1日)


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