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But be brave! I have defeated the world! (John 16-33)

 



 三島由紀夫氏 は、かれの著作 「若き サムライ のために」 のなかで、「勇者」 について以下の文を綴っています。

    いまの日本では勇者が勇者であることを証明する方法もなければ、
    不勇者が不勇者であることを見破られる心配もない。最終的には、
    勇気は死か生かの決断において きめられるのだが、われわれは
    そのような決断を、人には絶対に見せられないところで生きている。
    口でもって 「何のために死ぬ」 と言い、口で 「命をかける」 と
    いうことを言うことはたやすいが、その口だけか口だけでないかを
    証明する機会は、まず いまのところないのである。

 そして、三島氏は、「絶えず振りしぼられた弓のように緊張していなければならない」 と叱咤していますが、いまの日本にかぎらず、およそ、成熟した社会制度のなかでは、「戦う気力を持て」 と言われても そもそも 無理な話でしょう。

 というのは、社会が そうとうに機械化されて [ 手続きが機械化されたという意味と、生活そのものが 「均等な」 性質を帯びているという ふたつの意味ですが ]、しかも、生活のなかで食物も生活用品も豊富にあって、「村」 の連帯感も薄れた──或る意味では、煩わしいつきあいがなくなって──充足された状態のなかで、「戦う気力を持て」 と言われても実感は生まれないでしょうね。

 たとえ、危機を精神のなかに設定して生活を律するとしても、頭のなかで作った危機は、所詮、「観念」 に過ぎず、生活のなかで持続することは難しいでしょうし、もし、持続できたとしても、そういう人物は、社会制度のなかで 「異物 (あるいは、危険分子)」 としてみなされるでしょう。白鳥の子は、アヒル のなかでは 「醜い子」 でしかない、というのが群衆の法則でしょうね。

 昔、NHK の大河 ドラマ 「義経」 を観たときに、弁慶 [ 故・緒方拳さんが演じていたと記憶しています ] が義経を守るために、義経と敵のあいだに仁王立ちになって、敵の弓矢を浴びて壮絶な死にかたをした場面がありました。その場面を観て私が感動したというのは、「大事なひとを守るためには、じぶんの死をも厭わない」 生きかた (勇気) に共感しているのでしょうね──たぶん、あの場面を観て感動しないという人たちは少ないのではないかしら [ シナリオ・ライター も、それを知ってのうえで、あの場面を作ったのでしょう ]。

 もし、私が弁慶の立場にいたら、私も同じことをするでしょう──ただし、私の場合には、「(信念に根ざした) 勇気 [ あるいは、愛するひとに対する厚い情 ]」 から そうするのではなく、その場の いきおい で 「のぼせた行為」 でしかないのですが、、、。でも、結末だけを観れば、「勇気」 だったのか 「のぼせ」 だったのかを見分けられないでしょうね。それを見分ける唯一の法は、そのひとの いままでの振る舞いにあるでしょう。そして、その点を三島氏は訴えたかったのでしょうね。ただし、そういう日頃の振る舞いが いまの社会のなかで ふつうの行為として認められるかどうかは疑問ですが、、、。

 
 (2009年 7月 1日)


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