このウインドウを閉じる

But keep away from foolish and ignorant arguments,... (2 Timothy 2-23)

 



 三島由紀夫氏 は、かれの著作 「若き サムライ のために」 のなかで、以下の文を綴っています。

    日本ではすべてこれらを成立させた条件が欠けていて、エチケット
    だけが輸入された。

    伝統は守られなければ自然に破壊され、そして二度とまた戻っては
    こない。

    日本の平和運動の欠点は、感情によって人に訴えることがはなはだ
    強いのと同時に、論理によって前へ進むことがはなはだ弱い (略)

 上に引用した文は、いずれも、個々に検討の対象にしてもいいほど、それぞれ独立した文のように思われますが、私は、今回、これらの文がいっしょに綴られている エッセー の題名を伏せて、これらの文を示してみました。さて、読者は、これらの文が収まる文脈 (エッセー の題名) を考えてみてください。

 かれの エッセー の題名は 「礼法について」 です。かれの エッセー は、「エチケット → 伝統」 という構成要件の中で、ひとつの問題提起をしています。その問題提起は、「女性の力ではなく、アメリカ という男性の、占領軍の力によって女性の自由と解放が成就されたとき、女性は何によって自分の力を証明しようとしたのであろうか」 ということです。つまり、「(日本の) 女性の自由」 が 「他国の力で実現された文化」 であったということ。そして、日本の女性たちが、じぶんたちの自由をじぶんたちで 「証明」 してほしいと かれは期待しています。「証明」 という語を使ったように、かれは、「論理」 を指し示しています──それが、上に引用した三番目の文です。かれが この エッセー を認めた時期は昭和 44年ですが、現代では、上野千鶴子さんをはじめとして幾人かの女性たちが、この問題に真摯に取り組まれてこられました [ 本 ホームページ 「読書案内」 のなかで 「女性史」 を参照されたい ]。

 さて、私は、三島由紀夫氏が提示した問題を、(日本の女性に限らないで、) 「日本人」 全員の問題点──すなわち、「(日本の) 伝統」 を いかに考えるか、ということ──として考えなければならないと思っています。だから、私は、かれの エッセー のなかで、(性別を除外して、) 中核となる文を選んで上に引用した次第です。もう一度、上に引用した文を読んで、「伝統」 について じっくりと考えてみてください。

 
 (2009年 8月 8日)


  このウインドウを閉じる