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The Word was the source of life,... (John 1-4)

 



 小林秀雄氏が、かれの著作 「様々なる意匠」 で、「重要なのは新しい形ではなく、新しい形を創る過程であるが、この過程は各人の秘密の闇黒 (あんこく) である」 と綴った文を前回 (「反文芸的断章」 2009年10月16日) 私は引用しました。かれは、その文のあとのほうで、「(創作過程の) 各人の秘密の闇黒」 について以下のように綴っています。

    あらゆる現象を、現実として具体として受け入れる謙譲は、
    最上芸術家の実践の前提ではあろうが、実践ではない。彼の
    困難は、この上に如何なる夢を築かんとするかに存するので
    あって、恐らく或る芸術的稟質 (ひんしつ) には自明とも
    見えるそういう実践の前提というような安易なる境域には存
    しない。

     霊感というようなものは、誠実な芸術家の拒絶する処であろう。
    彼らの仕事はあくまでも意識的な活動であろう。詩人は己れの
    詩作を観察しつつ詩作しなければなるまい。だが弱小な人間に
    とって悲しい事には、彼の詩作過程という現実と、その成果で
    ある作品の効果という現実とは、截然 (せつぜん) と区別さ
    れた二つの世界だ。詩人は如何にして、己れの表現せんと意識
    した効果を完全に表現し得ようか。己れの作品の思いも掛けぬ
    効果の出現を、如何にして己れの詩作過程の裡に辿 (たど) り
    得ようか。では、芸術の制作とは意図と効果とをへだてた深淵
    上の最も無意識な縄戯 (じょうぎ) であるか? 天才と狂気が
    が親しい仲であるように、芸術と愚劣とは切っても切れぬ縁者
    であるか?
     恐らくここに最も本質的な意味で技巧の問題が現れる。だが、
    誰がこの世界の秘密を窺 (うかが) い得よう。たとえ私が詩人
    であったとしても、私は私の技巧の秘密を誰に明かし得よう。

 これが 「秘密の闇黒」 であり、西行 (歌人) の ことば を借りて謂えば、「全ク奥旨ヲ知ラズ」。小林秀雄氏は、「稟質 (生まれながらの性質、天性)」 などを重視していない──なぜなら、(前回 引用したように、)「言葉の二重の公共性を拒絶する事が詩人の実践の前提となる」 のだから。そして、その実践が目指す着地点は 「フォルム」 でしょうね。この程度の言なら、小林秀雄氏の天才を待つまでもなくて、文学愛好家の私にでも言い得ることです。小林氏の天才たる所以は、以下の文に存しています。

    脳細胞から意識を引き出す唯物論も、精神から存在を引き出す
    観念論も等しく否定した マルクス の唯物史観における 「物」
    とは、飄々 (ひょうひょう) たる精神ではない事はもちろんだが、
    また固定した物質でもない。認識論中への、素朴な実在論の
    果敢な、精密な導入による彼の唯物史観は、現代における
    見事な人間存在の根本的理解の形式ではあろうが、彼の如き
    理解をもつ事は人々の常識生活を少しも便利にはしない。
    換言すれば常識は、マルクス 的理解を自明であるという口実
    で巧みに回避する。あるいは常識にとって マルクス の理解の
    根本規定は、美しすぎる真理である。(略) 彼らが日々生活
    する事に他ならないのである。現代人の意識と マルクス 唯物
    論との不離を説くが如きは形而上学的酔狂 (すいきょう) に
    過ぎない。現代を支配するものは マルクス 唯物史観における
    「物」 ではない、彼が明瞭に規定した商品という物である。
    バルザック が、この世があるがままだと観ずる時、あるがまま
    とは彼にとって人間存在の根本的理解の形式である。だが彼の
    理解を獲得する事は、人々の生活にとっては最も不便な事に
    相違ないのである。(略) この二人は各自が生きた時代の根本
    性格を写さんとして、己れの仕事の前提として、眼前に生き生き
    とした現実以外には何物も欲しなかったという点で、何ら異なる
    処はない。二人はただ異なった各自の宿命を持っていただけ
    である。

    商品は世を支配すると マルクス 主義は語る、だが、この マルクス
    主義が一意匠として人間の脳中を横行する時、それは立派な商品
    である。そして、この変貌は、人に商品は世を支配するという平凡
    な事実を忘れさせる力をもつものである。

 これらの文を他の文に書き換えられないでしょう──それが 「文体 (フォルム)」 ということでしょうね。小林秀雄氏の天才に対して ただただ感服するほかにないでしょう。そして、「ことば の公共性」 に対峙する 「フォルム」 を扱った かれの文が、とりもなおさず、実践において それら (「ことば の公共性」 に対峙する 「フォルム」) を提示しています。

 私は、上に引用した かれの文を読んで、フッと、私が以前に綴った エッセー を思い起こしました。小林秀雄氏と三島由紀夫氏は、それぞれ、文芸評論家と小説家というように仕事場がちがっていますが、批評文において家族的類似性が強いようですね──三島由紀夫氏のほうが小林秀雄氏を読み込んでいるような気がするのですが、あくまで、私の想像にすぎないのであって、ただ、小林秀雄氏は三島氏の才能を驚嘆していましたが気質が違うと感じて 「金閣寺」 以外は読んでいなかったそうですが──「二人はただ異なった各自の宿命を持っていただけ」 なのかもしれない。

 
 (2009年10月23日)


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