このウインドウを閉じる

... the Word was with God,... (John 1-1)

 



 小林秀雄氏は、彼の エッセー 「志賀直哉──世の若く新しい人々へ──」 のなかで以下の文を綴っています。

    慧眼の出来る事はせいぜい私の虚言を見抜く位が関の山である。
    私に恐ろしいのは決して見ようとはしないで見ている眼である。
    物を見るのに、どんな角度から眺めるかという事を必要としない
    眼、吾々がその眼の視点の自由度を定める事が出来ない態 (てい)
    の眼である。志賀氏の全作の底に光る眼はそういう眼なのである。

    恐らく氏にとっては、見ようともしない処を、覚えようともし
    ないでまざまざと覚えていたに過ぎない。これは驚くべき事で
    あるが、一層重要な事は、氏の眼が見ようとしないで見ている
    ばかりでなく、見ようとすれば無駄なものを見てしまうという
    事を心得ているという事だ。氏の視点の自由度は、氏の資質と
    いう一自然によってあやまつ事なく定められるのだ。氏にとって
    対象は、表現されるために氏の意識によって改変されるべきもの
    として現れるのではない。氏の眺める諸風景が表現そのものなの
    である。

    堆積した諸風景は、無意識の裡に整正されて独立した生き物と
    なって、独立した表現となって姿を現す。

    恐らく古代の人々にとって各人の性格とは各人の面貌であり、
    行動であったように、志賀氏にとって己れの性格とは己れの
    面貌であり、行動であった。氏にとって、自然を対象化して
    眺める必要はかつてなかったように、自然の定めた己れの資質
    の造型性を再閲する必要はなかった。自然の流れを斫断 (しゃく
    だん) して眺める必要がなかったように、己れの心理風景の
    諸断面を作ってみる必要はなかったのである。
     氏の魂は劇を知らない。氏の苦悩は樹木の生長する苦悩である。

 私 (佐藤正美) は、前回の 「反文芸的断章」 のなかで、志賀直哉氏が 「二元性」 の悩みを免れていることに対して (嫉妬ではなくて) 反感を覚えるという エッセー を綴りました。さらに、今回、上に引用した小林秀雄氏の言を借りれば、志賀直哉氏の 「性格」 が──資質や性質と云っても同じことですが、ただし、「心理」 ではない点に注意されたい──かれの眼の視点を真っ直ぐに定めている点が特質である、ということです。すなわち、視点が真っ直ぐということは、まるで写真機のように自然を見て取って、精神の分裂がない、ということです。志賀直哉氏の作品が 「心理小説」 のようで 「心理小説」 ではないという理由が そこにあるのかもしれない。この点に関して、小林秀雄氏は、以下の文を記しています。

    「性格破産者」 というものは近代の文芸にしばしば登場する
    人物だ。近代人が自意識の過剰による自己分析で、己れの性格
    を破産させるという事は悲惨な事に違いない。しかし如何なる
    生活破産者も彼独特の面貌を、彼独特の行動を拒絶出来ないと
    いう事は滑稽な事である。自然は人間に性格の破産を許すが、
    性格の紛失は許さない。多くの人々は性格破産のこの悲惨を
    見て、この滑稽を見ない。人々に人間の性格がしばしば人間の
    心理と誤られる所以であり、性格は己れの思うままに消費し、
    獲得する一物体の如く錯覚される所以である。

 心理学では、「性格」 を どのように定義しているのかを私は知らないのですが、文学のほうでは、「性格」 は、物品を取引するように獲得されたり手放したりできる物ではないと考えられています──少なくとも、小林秀雄氏は、「性格」 を そういうふうに考えています。文学では、「性格」 が そのまま面貌である、ということ。

 さて、私が ここで問題にしたい点は、現代に生きる われわれは、はたして、みずからの 「性格」 が そのままに面貌・所作として現れる機会をもっているのかどうか、という点です。哲学・社会学では、すでに、近代において 「自己疎外・人間疎外」 を社会現象として指摘してきました。もし、その指摘が正しければ、社会のなかで 「表現」 を試みる文学においても、「自己疎外・人間疎外」 は面白い テーマ として扱うことができるでしょう──そして、その典型として 「性格破産者」 は恰好の題材になるでしょうね。あるいは、社会において一つの機能として制限されて生きざるをえない人間の 「心理」 を描写することも小説の恰好の題材になるでしょう。それらの題材を使って描写される物が 「性格」 なのか 「心理」 なのかをべつにしても、われわれは、そういう題材を扱った小説を読んで 「身につまされる」 感を覚えるでしょう──あるいは、「見につまされる」 感を抱かないとしても、少なくとも、魅惑を感じるでしょう。その点を私は問題にしたいのです。すなわち、われわれは、はたして、志賀直哉氏の作品──「見ようとはしないで見ている眼」 で描かれた作品──を読んで 「身につまされる」 感を覚えるかどうか (あるいは、魅惑を感じるかどうか)、ということです。私の場合で謂えば、私は 「否」 と応えざるをえない。

 志賀直哉氏は 「小説の神様」 と讃えられる作家です。そして、かれの作品は、かれの 「性格」 の所作です。小説家になりたいと思っている人たちのなかには、志賀直哉氏の 「文体」 を真似る──あるいは、見習う──人たちがいるそうです。しかし、小林秀雄氏が分析したように、志賀直哉氏においては 「自然の定めた己れの資質の造型性を再閲する必要はなかった」 のであって、そういう 「性格」 が生んだ 「文体」 を見習うことが はたして小説を学ぶ手本になるのかしら、、、かれを天才として崇めるほかにすべはないのではないかしら。「簡潔な文」 を綴るために かれの作品を見習うというのであれば、高校で習った作文を復習したほうが宜しい。かれの 「文体」 を見習うというのは、小林秀雄氏の言を借りれば、「この独特な個性の軌道を横切ろうと努め」 ることのほかはないでしょう。その警告として──「小説の神様」 というような公定の ことば に対する警告として──、小林秀雄氏は、エッセー の副題として 「世の若く新しい人々へ」 を付与したと私は判断しています。私は、志賀直哉氏の天才に一礼しますが、敬意を払ったら離れます。そして、私の足は、はっきりと、三島由紀夫氏のほうに向うでしょう。

 
 (2009年11月16日)


  このウインドウを閉じる