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And so they stumbled over the "stumbling stone" (Romans 9-32)

 



 小林秀雄氏は、プロレタリヤ 作家対芸術派作家の討論会の速記を読んで、「アシル と亀の子 U」 のなかで、「旋毛曲りに語る」 を綴って──前回の 「反文芸的断章」 で引用しました──、返す刀で、「三木清氏へ」 という公開質問状を綴っています。その公開質問状は、以下の文で始まっています。

    三木氏の論文は、「パスカル における人間の研究」 以来読んで
    いるのであるが、こんどのものが最も ナマ っている。これは取り
    扱われた問題が聡明な学者を充分混乱させるに足りる困難を
    持っているがためである。氏はこの論文で昨年来の マルクス
    主義文学理論に対する懐疑を小器用に清算しようと試みている。
    勢いそこでは、私のような常識しか信じていない男には腹が
    立って来るほど、多くの困難な事実が踏み躙 (にじ) られて
    いる。私はこれらの事実のために弁護したく思うのである。
    そして、三木氏が機会があったら明瞭に答えて欲しいと思って
    いる。

 谷川氏が マルクス 主義芸術理論に対して懐疑を抱いて 「社会的批評は唯物論的であるに反して、芸術的批評は観念論的であるほかはない」 と謂ったことに対して、三木氏が 「かかる抗言の基底には、作品の鑑賞は先ず作品を心を開いて享 (う) け入れるという、即ち個人の感情に依って行われるという単純な論理しかない」 (三木氏の論旨を小林氏が まとめた文) というふうに述べたことに対して、小林氏は、以下のように指摘しています。

    なるほどこれは単純な論理である。だが、これは決して理論家
    によって一蹴さるべき態 (てい) の単純な事実ではないので
    ある。

 そして、まず、小林氏は、「純粋な芸術的感情」 と 「社会的歴史的な規定」 との関係を以下のように解析しています。

    純粋に芸術的な感情などというものはない、と。そうだとも、
    世の中に純粋な水は流れてはいないのだ。だが、人間の能力
    では純粋と形容するより外、いかんとも規定し難い芸術的感情
    というものは厳 (げん) として存するのだ。社会的歴史的に
    規定されていない意志も感情もあり得ない、と。当り前だ、意志
    や感情は社会的歴史的に規定されてはいるだろうが、学者の
    思案によっては規定されてはいない。人の心は時とともに移り
    変る。だが、人の心とはいつの時代でも傍若無人な化物 (ばけ
    もの) である事に変りはない。社会的歴史的規定などと気取っ
    て言うと、何か変った事実でも指すように聞える処がお慰 (なぐ
    さ) みで、(略) この画家が自分の目の能力の精密は、例え
    ば三木氏の眼の能力に比べたら凡 (およ) そ神秘的だと高言
    するとしても、吾々は彼の高慢を正当に軽蔑する如何なる言葉
    も持っていない。氏の論文が衛生無害な屁理屈に終わっている
    所以は、先ずこの個人の鑑賞という事実に対する学者的横柄に
    依るという事は、私には疑う余地がない。

 次に、小林氏は、三木氏の論旨を次のように まとめています。

    氏は言う、第一に作家も批評家も芸術的感情そのものを社会
    的に批評しなければならぬ。次に、芸術批評は単なる印象
    批評に終わる恐れがある。印象批評が技術批評に進み、印象
    された心理の技術的基礎まで達した批評家は、更にそれの
    社会的基礎まで突き入るべきだ、第三には、芸術的評の独自
    性を主張する思想の根底には多かれ少なかれ、意識的にせよ
    無意識的にせよ、「芸術のための芸術」 という思想がある。
    この思想が既に一定の社会的根拠をもつ以上、芸術的批評の
    立場はまた社会的に批評されねばならぬ、と。

 これに対して、小林氏は、以下の反論を綴っています。

    一体こんな調子で社会社会と言われて、世の作家や批評家に
    何が面白い。社会とはあなたの眼前に生きた現実だ。あなた
    の頭の中でひょっとこと踊をする概念ではないはずだ。現実
    の何処 (どこ) を切っても社会という同じ顔があるという態の
    社会なるものは、飴 (あめ) の中から飛んで出る金太さん
    のように無益である。あらゆる批評の前提として自己批評が
    あるとは、私も批評の唯一の準度として信じている。だが、この
    事から芸術的批評は社会的批評に結びつくなどと言ったって
    始まらないのである。現社会の様々な風景を素材としない自己
    批評なんてものがありようはずはない。それなら自己批評と
    いう一語に人々の生きる苦痛は溢 (あふ) れているはずだ。
    作家が己れの感情を自ら批評するという事と、己れの感情を
    社会的に批評するという事と、現実において何処が異 (ちが)
    うか。こんな区別がしてみたいのを学者根性というのである。

    例えば ボオドレエル の出現に際して、幾十人の ボオドレエル
    みたいな詩人が暗中に葬られたか。彼一人燦然 (さんぜん)
    たる所以は、彼一人が当時の生の問題を強烈に体得したが
    ためであろう。ところで、人は彼の生きた時代の文学活動の
    何処を切っても芸術のための芸術という思想を容易に発見
    するとする。だが、この思想を発見するという事情は、この思想
    が ボオドレエル の生活理論に密着して多かれ少なかれ、意識
    的にせよ、無意識的にせよ存したという事実とは全然相違した
    事情ではないか。後者は前者に比べて凡そ比較にならず、
    生き生きとした複雑な事情ではないか。吾々が彼の作品を正当
    に批評する事が出来る、つまり、彼の作品が吾々の自己批評の
    正当な素材となる事が出来る所以の最も重要な事情ではないか。

 以上に引用した文のあとにも、小林氏の反論 (あるいは、質問) が続くのですが、本 エッセー では、先ず、ここまでの小林の言を ひとつの範囲として、上に引用した文から想起される像に対して私なりの意見を綴ってみたいと思います。

 私は三木清氏の作品 (あるいは、論文) を読んだことがないので、三木氏の言を まとめた小林氏の文のみを対象にして、三木氏の考えかたに対して どうこう謂いたくないのですが、もし、小林氏の まとめが正しいのならば──言い換えれば、もし、三木氏が そういうふうな意見を述べているのであれば──、私は小林氏に与するでしょう。逆に、もし、小林氏の まとめが間違っていれば、私は、小林氏の評を 「独断的 (one-sided)」 として非難するでしょう。

 ただ、私は、文学論と称した書物を好きではないことも断っておきます。その理由は、前回の 「反文芸的断章」 で述べました。

 さて、「解釈」 として、以下の 2つを考えることができるでしょう。

  (1) 現実的事態に対する 「解釈」

  (2) モデル (形式的構成) に対する 「解釈」

 文学は──たぶん、芸術と謂ってもいいのかもしれないのですが──、(1) として生じる行為であって、(2) は読者のほうでおこなう行為でしょうね。(1) では、「様々な」 想い [ 解釈 ] が起こるのは当然であって、その想いは、作家が しかじかの社会に住んでいるが故に、その社会の制約・束縛を被らなければならない、というような前提が存する訳じゃない。

 さらに、作品を読んで感じたことを ことば にした状態が (2) であって、形式的構成が ロジック──ここでいう ロジック とは、事態と ことば が 「1-対-1」 に対応していて、「妥当な構造」 に対して 「真とされる値」 が一意で与えられるということ──で構成されていれば、「解釈」 というのは 「付値」 の問題として扱うことができるのですが、文学においては、この形式的構成が ロジック で組まれるのではなくて、フォルム (文体、あるいは 「個性」) で刻まれるという点が特徴でしょう。三木氏が述べた評も、(2) の ひとつにすぎないのであって──あるいは、(1) と (2) を対応する法則を述べようとしているにすぎないのであって──、およそ、(1) と (2) が 「1-対-1」 に対応しているという前提がないかぎり、あるいは、(2) は (1) から 「かならず導出される」 という前提・推論がないかぎり、そんな法則など存在しないでしょう。もっとも、三木氏は、小林によれば、「芸術的批評は、社会的基礎に至るまで解析される」 というように考えているようですが、、、。

 言い換えれば、(1) と (2) とのあいだで推移的に対応できる存在がないかぎり──すなわち、(1) → a、a → (2) が成立するような a が存在しないかぎり──そんな法則を作ることは毛頭できないはずです。もし、その推移的な存在物が 「社会的歴史的な制約・束縛」 であるというなら、「解釈」 などいらないし、翻訳 テーブル (語と社会学的概念の対応表) のみが用意されていればいい。というのは、(現実的事態 → 解釈 → 作品) という過程において、「解釈」 というのは作家の個性であって、読者の 「解釈」 は、その過程に後続する事態です──すなわち、(現実的事態 → 解釈1 → 作品 → 解釈2 → 批評) という過程において、「解釈1」 と 「解釈2」 を同一とみなすことはできない。そして、いずれの 「解釈」 も、現実的事態および作品に対して 「1-対-1」 に対応している訳じゃない。これらの 「解釈」 に対して、「科学的」 と称する なにがしかの関数を持ち込で 「解釈1」 と 「解釈2」 を同一視しよう (あるいは、原因-結果の関係で観よう) とする態度を私は嫌っている、ということです。そして、「解釈1」 に対して制約・束縛として 「社会的歴史的」 環境を置いて、その観点から 「解釈1」 を すべて 導出しようとする態度を──作家は社会の制約を完全に免れているとは私も思わないけれど、その制約が作品を論じるときの第一前提にはならないということを謂いたいのですが──「公式主義」 と云っていいでしょう。三島由紀夫氏が 「文学のおかげで、私はあらゆる アカデミック な知性を軽蔑することができた」 と謂ったのは、「解釈」 のなかに関数を持ち込もうとする態度を非難していたのでしょうね。

 それぞれの作家に かくかくの事情があるからこそ、小林氏の謂うように、「吾々が彼の作品を正当に批評する事が出来る、つまり、彼の作品が吾々の自己批評の正当な素材となる事が出来る所以の最も重要な事情ではないか。」
 作家の かくかくの事情に係わるのが嫌なら、文学など読まないほうがいい。

 
 (2009年12月 8日)


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