わたしの評論がむつかしいという奇態な抗言をしばしば聞く。
　　　　私はむつかしい理屈を捏 （こ） ねた覚えはない。むつかしい
　　　　理屈なるものが、如何にたわいもない粉飾態であるかという
　　　　以外に、凡 （およ） そ理屈というものを述べた覚えはない
　　　　のである。

　　　　仮りに私の評論がむつかしいとするならばそれは二つの理由
　　　　によるので、それ以外の理由はない。第一に、わたしの表現
　　　　技巧が拙劣である事、第二には、単純な事実を語る事は、
　　　　複雑な理論を語る事よりも、遙かに困難なわざであるがため
　　　　だ。それにしても、私の評論がむつかしくて解らないなどという
　　　　若々しい新進作家たちは、一体どんな気で小説などというもの
　　　　を弄 （いじ） っているのか。理論が不得手である事は、作家
　　　　そもそもの特権と心得ているのか。今日の青年作家たちが、
　　　　まだ昔ながらの戯作者根性を捨て切れぬとは、わが国民の
　　　　美風であるか。

　　　　私は知っている。私の評論は、諸君の小説より百倍もむつか
　　　　しい、だが、バルザック の小説より千倍もやさしいのだ。
　　　　私のたわいもない論理をむつかしがるが如きは、凡そ作家
　　　　たるものの恥である。諸君にとって一体何が一番やさしいの
　　　　であるか。恐らく諸君には答える勇気があるまいから、私が
　　　　代って答えるが、諸君のとぼけた理性にとって、あらゆる理論
　　　　はむつかしく、ただ、やさしいものは実人生なのだ。人生は
　　　　ナンセンス だ、エロティック だ、さては階級闘争だ、それ
　　　　以上むつかしい理屈は、われわれ芸術家は知らんよ。

　　　　ムツカシイ 事が言えなければ言わなくてもよい。だが、それ
　　　　だからといって、通俗なものしか書けぬ理屈は何処にもない。
　　　　通俗なものしか書けぬ男に、ムツカシイ 事が言えぬも言いたく
　　　　ないもあったものではない。どう考えても通俗なものしか書け
　　　　ぬ男は、ムツカシイ 事を言う修業でも先ず始めたがよかろう。
　　　　それ以上の高等な人間修業 （例えば小説の修業の如き） は、
　　　　それから先の話である。

　　　　全自然が一つの運動ならば、もはや、人間は自然の外側に
　　　　立って、存在する真理を認識し、表現する者として現れは
　　　　しない。思惟と存在との区別も、ただそんなたとえ話も可能で
　　　　あるというに過ぎぬ。すべては運動の形態である。人間という
　　　　形態が生産され、人間の脳髄を通過した様々な観念形態が、
　　　　事実上在るというに過ぎぬ。自然の運動が人間精神を造型
　　　　したのなら、人間精神が生産した多種多様な観念形態の
　　　　運動も、原理的には異なった性質のものではない。

　　　　人々は日常視るところをことごとく言葉に翻訳して、蓄積する。
　　　　人々は言う。「言葉ではそうだろうが、実際はそんなもんじゃ
　　　　ない」、と。では実際とは何物か。実は彼らは次の通りに言った
　　　　のだ。「その言葉は簡単だ、もっと複雑な言葉もある」、と。

　　　　社会は自然の破片である、個人は社会の破片である、人間
　　　　精神とは言葉を生産する工場以外の何物でもない、言葉を
　　　　個人とする社会以外の何物でもない。

　　　　→

　　　　普遍性とはまた特殊の絶対的信用以外の何物でもない。
　　　　芸術上の現実主義とは、心の中にあると外にあるとを問わず、
　　　　特殊風景に対する誠実主義以外のものを指さぬ。

　　　　多種多様の精神の造型がある。芸術的形態も理論的形態も
　　　　それぞれその一面貌に過ぎぬ。これらの形態がすべて自然
　　　　の子ならば、これらを貫く法則はあるはずだが、この法則
　　　　が完全を目指していよいよ衛生無害な不死の死に近づいて
　　　　行く間に、それぞれの形態は、お互にその秘密を明さない。
　　　　己れの固有の内的法則によってのみ生き生きと発展して行く
　　　　事を、われわれは如何ともし難いのである。思惟的造型の
　　　　明瞭性と、芸術的造型の不明瞭性とが、鮮明に対立している。
　　　　両者がその世界を守っているのは、（略）。芸術にあっても、
　　　　音楽、美術、文学とそれぞれの内的法則を決して捨てないで
　　　　あろう。その固有の法則のうちに沈潜する個々の芸術家の
　　　　実践上の現実主義のみが普遍的な芸術概念に触れるで
　　　　あろう。

　なお、上の引用文中、「→」 の所に、前回引用した文が入っています。

　さても見事な文ですね。新進作家たちが 「俗」 に流れていることを怒っている小林氏は、「俗」 に対する芸術性を 「その固有の法則 （芸術的形態の内的法則） のうちに沈潜する個々の芸術家の実践上の現実主義のみが普遍的な芸術概念に触れる」 ことができるとしています──私には、かれの謂っていることが極々当たり前に思えます （もし、かれの言のなかで、むつかしい概念があるとすれば、「実践上の現実主義」 でしょうが、その語を かれは ちゃんと定義しているので、読み間違えることはないでしょう）。もし、作家たちが小林氏の評論をむつかしいと謂っているとしたら、私は、作家たちの苦情 （厭味？） がわからない。

　そんなことよりも、私にとって、もっと悩ましい問題は、「芸術的形態と理論的形態」 の対立──小林氏の言を借りれば、「思惟的造型の明瞭性と、芸術的造型の不明瞭性とが、鮮明に対立している」 はざま に立たされた ひとが、いったい、どのような 「表現」 を生産できるか、という点です。いずれの造型も、元はといえば、ひとつの現実に対しての行為です。したがって、この ふたつの造型は、「同時に」 実践できない。いずれの造型も、明晰な思考を前提にしている点では変わりがないでしょうね。ただ、その思考が ことば として翻訳されたときに、ふたつの造型は相反する面貌となるでしょう──思惟的造型では、語の 「解釈」 は一意だけれど、芸術的造型では、そういう制約・束縛はない。

　思惟的造型を職責としている エンジニア は、勿論、その制作理論をもっているけれども、はたして、「同時に」、芸術的造型の制作理論をもつことができるのかしら、、、。モデル 作りを職責にしている エンジニア にとって、「モデル」 とは 「特殊風景に対する誠実主義以外のものを指さぬ」 のだから。というのは、「モデル」 は 「現実的事態を （形式的構造として） 正確に記述する」 ことだから。はたして、ひとつの同じ前提に立って、相違する [ しかも、相反する ] ふたつの制作理論を 「同時に」 体得できるのか、、、。もし、思惟的造型と芸術的造型を一人のなかで併存させるのであれば、思惟的造型を適用できる範囲を限定して、そこを超えて使わないようにして、かつ、芸術的造型を その領域に持ち込まないようにするしかないでしょうね。そんなことは当たり前だって？　では、世に 「文学論」 として出版されている書物を読んでみてください──この領域を侵犯した 「偽科学的」 やりかた が平然と適用されていることを眼にするでしょう。

　ウィトゲンシュタイン 氏は、「哲学は、本来的に、ただ詩作としてのみ書かれるべきである」 と述べていますが、この ことば が いかに実現困難なことを軽業のように謂っているか、、、ウィトゲンシュタイン 氏の ファン である私は、この文を読んだとき、「なるほど、そうなのか」 と単純に納得しましたが──実際、ウィトゲンシュタイン 氏は、その ことば を実行した天才ですが──、私のような凡人には到底実行できない仕業であることを後 （あと） になって痛感しています。

　
　（2010年 1月16日）