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The Lord knows that the thoughts of the wise are worthless. (1 Corinthians 3-20)

 



 小林秀雄氏は、「批評家失格 T」 のなかで、以下の文を綴っています。

     私は、理智を働かせねば理解が出来ぬような評論を絶えて
    読んだ事がない。(私の評論などは言わずと知れたこの部類
    だ。)感受性は まことに細やかで、これに準じて理智は まこと
    に太いなどという見事な頭は、稀有の事件に属する。現代日本
    の文芸評論の一大特色は先ず何を書いても理智だけは参加し
    ていない事である。ただ カン の鈍さが理屈を言わしている。

 さすがに、第一級の批評家の眼は鋭いですね。
 「細やかな感受性」 と それに拮抗する 「太い理智」 を身につけている批評家がいないという小林氏の指摘は、現代でも当てはまるかもしれない。ただ、この程度のことなら私にも指摘できることであって、小林氏の眼の鋭さは 「ただ カン の鈍さが理屈を言わしている」 という点を見逃さなかったことでしょうね。

 現代では、テレビ 番組に出ている批評家の数十秒の コメント や ウェブ で書き込まれている数行の意見のように、批評が手短になっていて、妥当な ロジック を駆使する (あるいは、構成する) ような 「理智」 は死語になってしまったようですね。ましてや、その妥当な ロジック を使う誘因となる 「感受性」 に至っては邪魔物扱いされて──すなわち、対象の 「主調音」 を じっくりと聴きとらないで、じぶんの意見 [ しかも、ロジック など使っていない思いつき ] を言うのが 「言明」 だと思い違いして──、批評とはいっても、「ひとりごと」 の堆積にすぎない現象が多いようです。

 そういう 「ひとりごと」 では、カン の鈍さが言わしている理屈などは、「あなたの言っていることは私の考えと違う」 という感覚 [ 拒否感 ] が理由になっていて──「感受性」 じゃないわなあ──、「だから、私はあなたを嫌いだ」 という反応を アウトプット するように プログラム されている機械と さほど相違している訳じゃない、じぶんの愛憎を理屈で擦 (なす) っている態でしょうね──ただ、「嫌い」 と言わないで、批評を言っている。そういう批評を読むと私は、(前回の 「反文芸的断章」 で引用した小林氏の言を借りれば、) 「これはきっと皮肉のつもりで書いているんだと思い込んでみる、忽ち評論の意味は、どんでん返って、私はげらげら笑い出す」。

 文芸評論という分野では、文学愛好家であれば、「或る程度の」 意見を述べることができるでしょう。文芸愛好家の人数の評が存在しえる。この 「或る程度の」 という性質が 「カン の鈍さが理屈を言わしている」 という状態でしょうね。そして、文学愛好家がだれでも、「或る程度の」 評を述べることのできる土壌において、プロフェッショナル な [ 批評を職とする ] 批評家の仕事というのは、まさか、仲間内の符牒 [ 専門語 ] を使うという点にある訳じゃないでしょう。それも 「カン の鈍さが理屈を言わしている」 状態にちがいないでしょうね。

 
 (2010年 3月23日)


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