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Tear down this Temple and in three days I will buid it again. (John 2-19)

 



 小林秀雄氏は、「批評家失格 T」 のなかで、以下の文を綴っています。

     作家というものは、生み出そうと足掻 (あが) いているだけだ、
    現実とできて子供が生みたいと希っているだけだ。なにも壊そう
    とはしていない。

     あらゆる意味で、作家の制作とは感動の化学なら、これを感動
    の世界で受けとって計量するのが順序である。ほんと言えば批評
    は もうそこで終わっている。さて、批評文でも書くとなれば、お話し
    かわって云々という事になる。壊す事業が始まる、壊して組立てる
    事業が始まる。私は組立てる方はからっぺただが、壊す方なら
    得意である。

     悪口なら反吐 (へど) が込み上げて来るようにこみ上げて来る。
    根が馬鹿な証拠である。脛 (すね) に疵 (きず) をたんと持って
    いる証拠である。私は悪口が自然とくたぶれてくれるのを待って
    いる。脛の疵を思い出すのにくだぶれないわけはあるまい。

 この断章の主文は、最後の段落 [ 悪口なら反吐が... ] でしょうね。そして、私 (佐藤正美) は、最後の段落で述べられている かれの本音に対して 「実感」 を覚えます──ただ、かれが この文を認 (したた) めた年齢が 28歳か 29歳のときであって、私が今 57歳であることを鑑みれば、わが知性・感性の成長度のおそさには呆れますが、、、文学を職業として志した小林秀雄氏のほうが、「文学青年」 で終わった私に較べて、「脛に疵をたんと持って」 いたからでしょうね [ 尤も、一時、本気で文学をやりたいと思っていた私は、小林氏ほどではないかもしれないけれど、脛に疵を数多く持っています (他人の ことば は、とうに見え透いていました) ]。

 「悪口」 は、前段の 「壊す」 に対応しているでしょうね。さて、作家の精神から生まれた物 (「感動」) を 読み手の精神に伝達する過程において、「感動」 を計量する批評では、もし、作家が描いた人生体験と似た体験を批評家がしていたら──しかも、作家の それに較べて、もっと豊富な体験をしていたならば [ 小説の対象になるような体験であれば、日常生活 (あるいは、常識) から逸脱した体験・やましい体験にちがいないし、そういう体験の数が多ければ (脛に疵をたんと持っているならば) ]──、へぼな作家の見え透いた手口に対して、「悪口なら反吐 (へど) が込み上げて来るようにこみ上げて来る」 でしょうね。「探るような眼はちっとも恐 (こわ) かない、私が探り当ててしまった残骸をあさるだけだ」。

 脛の疵のなかで最も悪質な疵は、「罪意識」 を抱きながら相手を巧妙に誘惑した行為でしょうね。すなわち、巧妙な誘惑とは、罪として知りながら 「罪意識」 のなかで じぶんを責めつつ、じぶんを責めることを 「免罪符」 にして誘惑することです。そういう悪質な手口は、作家のなかに、程度のちがいがあっても、かならずと言っていいほど潜んでいます。そして、このとき、「罪意識」 は、悪事の興奮を いっそうそそる香水のような物でしょうね。その臭いを嗅ぎつけたとたんに、私は、悪口が反吐のように込み上げてきます──「欺瞞を欺瞞するような手口を使うんじゃない、堂々と堕ちなさい」 と。徳のあるひとに較べて悪人のほうが断然に魅力がある (笑)。悪事のほうが魅惑的 (浪漫的) です。そのために、二流 (あるいは、贋物) は、「偽悪者」 を装う。そんな疵を多数持っていても、毛頭、勲章にはならないでしょうね。一流の作品は、かならず、「堂々と堕ちている」。

 作家の作品を批評家が批評しようとすれば、その批評文そのものが読み手の批評の対象になるので、批評家は じぶんの 「鋭い」 視点・分析を見せようとしたがる誘惑にかられはしないか、、、そのために、無理に辛辣な態度をとって わざわざ悪口を言おうとしていないか、、、でも、見栄をきった悪口は、一時的に もてはやされても、時がたてば、色褪せるでしょうね。

      そんなことは みんな どうでもよいことであった。
      ただ 巨大なものが 徐かに 傾いているだけであった。

                               (伊東静雄)

 
 (2010年 7月 1日)


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