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Be on guard against the yeast of the Pharisees. (Luke 12-1)

 



 小林秀雄氏は、かれの エッセー 「心理小説」 のなかで、以下の文を綴っています。

     「純粋な想像というものは、からにせよ、からにせよ、まだ
    化合しない物の裡から一番しやすい物を選ぶものだ。(略) 自然界
    の化学で同じような事が起るように、この知性の化学においても、
    次のようなことがしばしば起る。二要素の混合の結果、この二要素
    の一方にはないような、いや、どちらにもないようなものが現れる。
    ・・・こういう具合で想像の範囲に限界がない。想像の材料は、世界
    を通じて拡がっている。(略)」 これは今から百年前、ポオ が述べた
    言葉である。これは認識論でも心理学でもない。創作とか表現とか
    いう作家の行為の極端な意識化なのである。百年前という事を忘れ
    まい。

     幸か不幸か、こういう作家の知性上の悪闘は、わが国の文学界に
    は、少なくとも主流には一度も輸入されなかった。一と昔前、自然
    派の諸小説の手法に対してあげられた様々な反抗は、すべて心理
    的手法をもってなされた。しかし、この心理的手法は、ポオ のような
    痛烈な創作上の知性主義から生まれたものではない。彼らはただ
    心理的な反抗を試みたのである。前の ポオ の言葉のような覚悟
    からみれば、あらゆる存在は作家の想像力の機能として招集される
    だが、この時、この想像力の複雑が、心理的手法を自然発生的に
    生み出す。そういう心理的手法に比べると、彼らの心理的手法なる
    ものは、換言すれば文章技巧の上の新しい要素に過ぎない。

 上に引用した文は、「心理小説」 のなかで、セクション 3 ──原文では、3 という番号が付与された セクション──において、最初と中半 (なかば) で綴られている文です。そして、小林秀雄氏は、以下の文で、セクション 3 を締め括っています。

     こういう今日の状態に、心理小説、特にその極端な形式が輸入され
    る時、これが受け入れられようが受け入れられまいが、多くの危険を
    伴う事は火を賭 (み) るよりも明らかではないのか。

 私には、小林秀雄氏が言っていることは至極当然のことのように思われます。すなわち、「やらざるを得ない」 という逼迫感 (あるいは、「絶対に やりたい」 という覚悟) のない土壌のなかに、外 (そと) から キーワード (概念) が入ってきても、われわれは うごかない (反応しない) あるいは うごいたとしても右往左往する (混乱する)、ということ。

 たとえ、新しい 「思想」 に直面して右往左往しても、新しい 「思想」 を習得するなかで、事態が次第に収斂すればいいのだけれど──社会 (勿論、或る限られた範囲においてですが) のなかで他の思想と相互に関係して in due place あるいは、to the right track──、事態が収斂するためには、その 「思想」 を摂取するための、その 「思想」 の産まれた前提が われわれのほうになければ──もしくは、その 「思想」 が産れた前提も いっしょに輸入しなければ、あるいは、その前提と対決して、「思想と前提」 の組を じぶんの土壌に移植できるように適応させなければ──、われわれの土壌のなかで、「思想」 は ちゃんとした 「接ぎ木」 (品種の移植・混和・増殖) にならないでしょう [ 継ぎ接ぎ (つぎはぎ) に終わるでしょう ]。

 そして、小林秀雄氏は、伊藤整氏の謳う 「心理主義」 なる概念が単なる 「文章技巧の上の新しい技術」 であって、「思想」 とか 「主義」 というふうに謳うほどの視点・体系をもっていないと指摘しています──けっして 新しい 「文学の ありかた」 ではなくて、「様々なる意匠」 のなかの一つの意匠にすぎない、ということ。

 
 (2010年 9月 1日)


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