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you will never see me again until you say God bless him... (Matthew 23-39)

 



 小林秀雄氏は、かれの エッセー 「文芸批評の科学性に関する論争」 のなかで、以下の文を綴っています。便宜上──後で参照するために──、それぞれの段落に番号を付与しておきます。

    [ 1 ]
     印象群をただ直観像とみている点では同じです。しかし、彼
    は、この印象派の世界を分析しようとかかりません、というの
    が、彼は、現代唯物論からの命令を受けているからです。
    即ち、「感性的計量は、すべて当然不完全である。だが、この
    不完全な計量が、絶対真理に近づいて行く事は、無条件的で
    ある」という命令です。そこで、彼は、諸印象を、この命令で
    要約してしまうのです。分析なんぞする要はなくなります。
    その代りに、この命令で要約してしまうという事は、諸印象を
    決して真に認識なんぞしなくなってしまう事を意味します。何故
    なら、現代唯物論の立場では、真の人間認識は、感性的計量
    以外には断じて認めていないからです。彼は命令を受けて、
    命令にそむいているだけです。だけど、彼はそんな事には気づ
    きません。やっぱり本当に作品を認識していると思っています。
    と言うのは、これと同時に作品は、例えば、或る階級の観念
    形態として現れるからです。

    [ 2 ]
     仕事はもう楽です。観念形態という抽象に、社会人の階級的
    な実践契機を、さぐればいい、そこに評価が生れます。一体、
    前にあげた現代唯物論の命令なるものは、一概念として振り
    まわすには、根本的に過ぎる真理であります。それを振り廻す
    処に、空虚な図式が出来ます。この図式は、勿論、それ自体
    数学的正しさを失いはしないが、その事はまた、実際の批評
    活動には何んの実践的契機も与えてくれぬ事を意味します。
    図式という体系は、実際の批評活動という体系に対して、
    数学的無限大あるいは無限小の関係に立っております。

    [ 3 ]
     一体、マルクス によって商品というものの、正体がさらけ
    出されたと言われますが、それは、商品というものの分析に
    によって、その社会的機能が明瞭にされたという事です。つまり、
    商品は社会の生産関係の実体化である事が明らかにされた時、
    はじめて実体なのであります。マルクス にとって商品の機能
    という事は、同時にその存在という事を意味します。この意味
    で、マルクス 経済学における商品は、以前の経済学における
    商品に比べて、遙かに精神化されているとも言えるはずです。
    一体、人々は精神とか物質とか、観念論とか唯物論とかいう
    言葉に、どうしてそんなに神経質にこだわっているのでしょう
    か。「資本論」 の第一巻第一章を読んでごらんなさい。あそこ
    で、彼が商品を縦横に分析している方法は、観念論的方法なん
    ですか、それとも唯物論的方法なんですか。どっちでもありは
    しません。

    [ 4 ]
     さて、多くの批評家が、マルクス にならって芸術作品の精神
    化をめがけます。芸術至上主義者、そんな人物がほんとうに生き
    ていたかどうか私には甚だ疑問だが、ともかく、そう言った調子
    の人たちが芸術作品に奉った物自体概念を征服しようとめがけ
    ます。それで、どうです。経済的客観の社会的関係図式以外に
    なんの武器も持たぬのです。笑止な事だ。私は、この戦 (たた
    かい) を信じます。だが、こういう雄大な戦には、もっと精巧な
    武器を必要とする事も信じます。経済現象の分析に、経済人と
    いう仮定がなかったなら、分析もへちまもありはしません。芸術
    現象の分析に経済人なる仮定は、何んの足しにもならない。(略)

    [ 5 ]
     こういう具合な書き方をすると、人はすぐ二元論だと申します。
    だが、私にとってはそんな申し分は単なる言葉の戯れです。人々
    は、生活の便利上から、誰でも二元論的にものを考えているもの
    です。それにならって何んの間違いも起りはしません。一元論的
    世界観なぞという仰々 (ぎょうぎょう) しい言葉に、たぶらかさ
    れて、人々の素朴な思考方法を軽んずる方がよほど、間違いを
    起しやすいのです。私が、もっと精密な武器を必要とするという
    のは、例えば、他から審美的範疇を借りて来いなどという意味で
    はないのです。芸術作品を一般社会関係に還元する戦の困難を
    深刻に悟れという事に外ならぬです。こう言えば、一元論的表現
    になります。だが、私は前と同じ事を言っているに過ぎないの
    です。ところで、作品を社会的、機能的に分析しようとする時、
    作品は、どんな世界で、その全面目を現しますか。

 長い引用になりましたが、ひとつのまとまった意見として扱うには、途中で切ることができなかった次第です。[ 5 ] の最後に提示されている問題点 「作品を社会的、機能的に分析しようとする時、作品は、どんな世界で、その全面目を現しますか」 については、次回に扱いましょう。

 さて、[ 1 ] では、論争において問題になっている所在として、小林秀雄氏が絞った点は 「印象 (感性的計量)」 という 「認識概念」 です。この概念を 「実在物」──「無条件的である」──と考える点では、印象派も唯物派も変わりがない。要は、この 「実在物」 を分析するか否か、という点にある、ということ。唯物論は、これを分析しない、と。

 [ 2 ] において 「図式」 の性質が [ 1 ] に対応して示されています──「図式」 は、図式であるかぎりにおいて、実践ではないのであって、たとえ、図式が実践を写像した形式的構成であっても、図式の体系と実践の体系とは 「1-対-1」 の対応にはならない [ 言い換えれば、図式のなかで記述されている項と現実的事態のなかの個体は、双射にはならない ]。実際の批評活動 (あるいは、思考) というのは──「作品 (批評文)」 ではないことに注意して下さい──、ひとつの 「閉包 (closure)」 として範囲を切断することができない、言い換えれば、批評活動の最中にあって 「延長の無限」 も起こるし 「切断の無限」 も起こります。ひとつだけはっきりしていることは、「作品」 が存在する、ということ

 [ 3 ] において、「商品の機能という事は、同時にその存在という事を意味します」 という記述 [ そういう考えかた ] は、およそ、科学的な思考法 [ 科学的な技術 ] であれば、当然の やりかた でしょうね。一つの存在というは、それをふくんだ現象のなかの一つの項にすぎないのであって、ひとつの項であるかぎりにおいて、他の項との関係のなかで──言い換えれば、作用 [ 機能 ] のなかで、その存在を認識されることになるでしょう。「商品」 であれば、その関係 [ 機能 ] が 「社会的機能」 ということ。そういうふうに実体化すること──言い換えれば、「機能を分析して、存在の座標を与える」 ということ──を、小林秀雄氏は、「精神化」 というふうに云っています。私 (佐藤正美) は、「精神化」 という ことば を そういうふうに使うことに対して 若干の抵抗を感じますが、「形而上学的な働きをする実体としての精神を重く視る」 という 「文字通りの」 意味であれば、小林秀雄氏の用語法は正しいし、私のほうが 「精神」 という語の使いかたにおいて、なんらかの偏癖に惑わされているのかもしれない。そして、その惑いを、小林秀雄氏は、次の文で見事に暴いています──曰く、「人々は精神とか物質とか、観念論とか唯物論とかいう言葉に、どうしてそんなに神経質にこだわっているのでしょうか。「資本論」 の第一巻第一章を読んでごらんなさい。あそこで、彼が商品を縦横に分析している方法は、観念論的方法なんですか、それとも唯物論的方法なんですか。どっちでもありはしません。」

 そして、[ 4 ] で、小林秀雄氏が云うように、「多くの批評家が、マルクス にならって芸術作品の精神化をめがけます」──作品の機能を分析して、「存在」 (作品) の座標を与えよう、と。そして、芸術作品の精神化を図ろうとしたときに、かれらが適用したのは、作品に対して 「(商品 [ の機能 ] の)図式」だった、と。「笑止なことだ」。というのは、そもそも 「前提」 を異 (い) とするはずの他の事態に対して、すでに或る前提で精神化された図式を適用すれば、そぐわぬことは明らかではないか、と。「経済人」 という仮想物を前提にした芸術作品の機能は──たぶん、書店には役立つかもしれないけれど──文芸批評には、なんら、益することはないことは常識でわかるでしょう。

 以上の論法を辿れば、帰結は明らかですね──[ 5 ] で曰く、「他から審美的範疇を借りて来いなどという意味ではないのです。芸術作品を一般社会関係に還元する戦の困難を深刻に悟れという事に外ならぬ」、と。もし、ここで、小林秀雄氏が、「審美的範疇を借りて来い」 と言えば、争点を外した [ 逸脱した ] 批評で終わったでしょうね──というのは、もし、「審美的範疇を借りて来い」 と言えば、「作品」 に対して 「商品の図式」 を借用したのと同じ罠に落ちるから [ すなわち、「商品の図式」 が 「審美的範疇の図式」 に代わっただけになってしまうから ]。そうしなかった点が小林秀雄氏の批評家たる正当な感性の作用でしょうね──小林秀雄氏が第一級の批評家と云われる所以です。そして、「芸術作品を一般社会関係に還元する戦の困難を深刻に悟れという事」 は、「反文芸的断章」 (2009年12月16日付) で述べた 「R (作家, 作品) と R (作品, 批評) という ふたつの二項関係の 「絶望的な断層」 のことでしょうね。それらの二項関係のあいだで、作品に対する 「印象を享受する前に、これを思弁的に分析しようと」 して 「作品」 を介した推移律 (単純な法則) を考えることが──芸術的批評は社会的批評に至らなければならないという推移律を考えることが──、「戦の困難を深刻に悟っていない」 ということ。「理も嵩ずれば非の一倍、いらざる学文 (がくもん) し給ふな」。頭が眼を欺かないということが、どれほどに困難なことか、、、

 
 (2010年10月 1日)


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