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Streams of life-giving water will pour out from his side. (John 7-38)

 



 小林秀雄氏は、「再び心理小説について」 を 「改造」 1931年 5月号に寄稿しています。小林秀雄氏は、この エッセー を綴る以前に、「心理小説」 という批評を 「文藝春秋」 1931年 3月号で発表しています。そして、今回、「心理小説を 『再び』 テーマ にした」 理由を彼は以下のように述べています。

     今日という時代の途轍 (とてつ) もない混乱を直ちに思わせる
    ような、互に何んの脈絡もない諸論文を一括して論ずる能力は
    私には全くないし、そんな白々しい芸当はしてみる気にもならな
    いので、ただ心理小説について書く事にする。この問題が諸氏
    の手で各様に論じられているからである。私は 「文藝春秋」 の
    三月号にこの問題について書いた事があるので、ここに書こう
    とすれば、考えが変らぬ以上、同じ事を書くような仕儀になると
    思うが、それでも諸氏の論旨に照らして、またこの問題に触れ
    たいと希うのは、かつて書いた処は言葉の不足のために、また
    一番大事な個所の甚だしい誤植のために、一文の意のある
    ところを汲んでくれた人がまことに少なかったろうと密かに考え
    ているからだ。

 そして、まず、瀬沼茂樹氏の 「擬浪漫主義の復帰」 という論文を小林秀雄氏は次のように非難しています──「従って氏が氏の論文構築に好都合な土台として選んだものは、いわゆる自然派諸巨匠の方法論ではなくて、ゾラ という男の方法論だ。しかも ゾラ の方法論について、その裡にある文学の創造的方法については、フロオベル の片言に色目をつかっただけで事を済ましているからには、それは ゾラ の方法論でもなんでもなく、コント の方法論である。一言にして言えば、文学みたいな顔をしている単なる実証主義精神について述べているに過ぎぬ。かかる抽象的精神は文学的実体と何ら関係のないもので、当然氏の論文は文学的現実をうっちゃらかして精密な空言を積み重ねて往く」、と。

 私は瀬沼茂樹氏の論文を読んでいないので、小林秀雄氏の意見を引用するだけにします。小林秀雄氏曰く、

    (略) フロオベル はあらゆる抽象論を嫌悪した。ゾラ は実証派
    哲学の理論に酔った。何に酔うにせよ、酔う事は科学的ではない
    のである。
     科学的現実と芸術的現実とは全く別なもので、前者から眺めれ
    ば後者は感傷的であり、その逆もまた真なのだ。作家にとって
    抽象的方法論というものは、役に立たないし、また抽象的な方法
    論でなくても一般に作者がどういう野心的な方法で、どういう作
    を書こうと望んだところで、作品というものは望み通りに出来上
    るとは限らない。実際では作者は自分の出来る事しかしないもの
    である。
     瀬沼氏は、心理的現実主義文学が、氏のいわゆる自然主義
    文学の方法論をどんな具合に止揚するかを綿密に述べているの
    だが、私はそれを一つ一つたどる興味はない。

     自我の多様、複雑、混沌、矛盾における状態というものは、何
    も決して特殊な事情ではない。人間の直接経験の世界にあくまで
    も忠実な一般の素朴人あるいは芸術家は、この多様混沌の状態
    が、自我というものの真実の姿である事を昔からよく知っていたの
    である。この事情にいつの世になっても迂闊 (うかつ) でいるのは
    いわゆる理論家という人種である。だからこそ、最も清潔な抽象を
    武器として、率直に現実の姿に肉迫しようとする科学の世界で、
    心理学は、一方機械論的分析を捨て、一方その形而上学的色合
    いを脱し、混沌たる自我の状態をそのまま許容して、この生理的
    全過程の系列を、力学的場と扱い、その方向性を決定しようとする
    に至ったのである。プルウスト や ジョイス の心理探索に関する
    方法の根柢は、またこれと聊 (いささ) かも異なる処はないのだ。
    問題は方法の実践にある。
     自我の解体を解体それ自らで表現するという事は、表現を命と
    する作家にあっては、絶対に起り得ない事だ。今日の知的な錯乱
    と焦燥とが、いわゆる シュルレアリスト なる一群を生み、(略)
    遂に表現上の オートマティスム に到達した。これは現実そのもの
    で、表現と称すべきものではない。(略)

    (略) 作家の制作理論には、理智は、方法としてのみ導入される
    事が出来るのだ。制作という実践において、これを命令し、規定
    する範疇的理智などというものを、少なくとも一流作家は信用して
    はいないのだ。(略)
     氏がこれらの事実を無視して、プルウスト を遂に ノヴァリス に
    まで変貌させるために、重ねて行く理論的遊戯を、一つ一つとき
    ほごすのは私には全く容易な事だが、その煩 (わずらわ) しさに
    堪えぬ。

 小林秀雄氏は、そう言いながらも、「プルウスト を遂に ノヴァリス にまで変貌」 させた瀬沼茂樹氏の理論的遊戯を以下のように指摘しています。

     或る印象を受けた瞬間の、その人の内的真実というものに
    あくまでも忠実であろうとするならば、そしてこれを表現するの
    に、オートマティスム の愚を演じまいとするならば、意識の現在
    性に拘束されない、意識事実の没時間的知的把握、不在の
    現在の追認識は必然の方法であり、また、この追認識のため
    に、言語的隠喩の自在な馳駆が許されなければ、前に述べた
    ような心理学者に転身しなければならない。かかる時、表現の
    天啓とは作家的理智以外のものをささぬ。この場合設定される
    芸術的 イデヤ とは作家的科学に必須な仮説である。かような
    プルウスト の レアリスム を表現の天啓とか芸術的 イデヤ と
    かいう言葉に誑 (たぶら) かされて、ノヴァリス の感傷的 ロマ
    ンティスム と結びつけるのは間違っているだろう。

 さて、「意識事実の没時間的知的把握」 「不在の現在の追認識」 という用語は、小林秀雄氏らしからぬ 「生硬な」 措辞ですね──たぶん、瀬沼茂樹氏の用語を引き込んで そのまま返したのかもしれないですね [ ただし、私は瀬沼茂樹氏の論文を読んでいないので、あくまで推測にすぎない ]。「意識事実の没時間的知的把握」 「不在の現在の追認識」 は、「無限なるもの」 の認識として考えていいでしょう。

 次に、小林秀雄氏は、伊藤整氏の 「マルセル・プルウスト と ジェイムズ・ジョイス の文学方法について」 に言及して、プルウスト に関して ジイド が述べている所思を検討しながら、プルウスト と ジョイス との相違点を確認しています。そして、私 (佐藤正美) が小林秀雄氏の意見に感嘆した点は、以下の文です。

    (略) 「ユリシイズ」 で私を最も驚かせるものは、心理影像の
    豊富や、奇怪ともみえる裁断や連続ではない、そんなものなら
    フランス 象徴派等の長い悪戦がふんだんに残して置いてくれた
    ところだ。私が無類だと思うのは、その全く独特の苦さである。
    苛烈な、虚無的なしかも肉感的な無類の味わいである。人物の
    行動に関する造形的な、残酷と憂鬱とが混淆 (こんこう) した
    ような描写が、長々しい薄弱な心理像の連続に生彩を与え、
    あるいは、私の教養不足のために判じがたい知的影像の連続
    を苦痛を感じないで読ましてくれるような気さえする。

 赤線は、私 (佐藤正美) が施しました。小林秀雄氏が ここで述べている特徴点こそ、(小林秀雄氏の愛用する ことば を借用すれば、) 「作家たる面貌」 ではないか。こういう面貌がないような作品は、心理影像を いかほど詳細に記述しても、小説にならないでしょうね [ そうでなければ、「心理学者に転身しなければならない」 ]。

 小林秀雄氏は、この エッセー を以下の文で締め括っています。

    (略) ジョイス において、はや、われわれは、古い、しかも非常
    に困難な、作家の人間的資質と表現技巧の問題に絡 (から)
    まれて来る。彼らから教わる革命的な外面技巧、あるいは彼らを
    止揚すべき近頃流行の モンダアジュ 論、等々の呑み込みやすい
    処は、人々はすぐ覚えてすぐに忘れてしまうだろう。だが彼らの
    真の影響は目にみえず遅々たるものであろう。

 作家の面貌が刻まれた作品は、呑気な学者根性で鋳造された意匠なんぞでは ビク ともしない、ということ。あるいは、次のように言ってもいいかもしれない──すぐれた作品は、作家の面貌が燻 (くゆ) っていて、いかような 「解釈」 からも独立して立っている、と。[ 以前に幾度も引用した伊東静雄氏 (詩人) の詩句 「そんなことは みんな どうでもよいことであった。 ただ 巨大なものが 徐かに 傾いているだけであった。」 を思い出してください。] そして、すぐれた作品は単なる外面技巧 [ 制作理論 ] を示して尽きるのではなくて形あれば影あり声あれば響きあり、作家たる面貌が ほかの作家たちに与える関係 (および、社会 [ 読者 ] の嗜好に及ぼす関係) は、革命的などという一時的な衝撃を与えて忘却されるような関係ではなくて、その底辺において脈々と伝統につながっていて tenuous ではない、ということ

 
 (2010年10月16日)


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