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you will have to give account of every useless word you have ever spoken (Matthew 12-36)

 



 小林秀雄氏は、「現代文学の不安」 のなかで以下の文を綴っています。

     最近の文芸時評で、嘉村磯多氏の作品について書いたところが、
    数人の人々から抗議を受けた。あるいは直接に、あるいは文章の
    上で。ああいう非時代的作品を讃め上げる手はないと言うのだ。
    うるさい事である。なるほど嘉村氏の作品を非時代的だと断ずる
    のは正しいかも知れぬが、私は正しい事を食い過ぎて、反吐を
    はかない人間は、生まれつき虫が好かないのである。時代的だと
    か非時代的だとかいう、今日可愛がられている批評家の言葉が、
    人手から人手に渡り歩き、どんなに一銭銅貨のようによごれて
    いる事か。

     思想というものは、風呂敷のようなもので、なんでも一緒ごたに
    つつむのに便利である。私も批評を書いている以上、この便利
    を知らぬわけではないのだが、私を感動させる種々様々の傑作の
    数が増加すればするほど、この便利の果敢 (はか) なさも骨身に
    こたえるのである。文学の抽象的大通りを疾駆する、理論で武装
    した贅沢極まる乗物に、石こそぶつけたが、乗った事は一っぺん
    もないのだ。私は好きな通りを手ぶらでうろついていただけだ、
    処々で一杯ひっかけたりなんぞしてさ。会う人は少ないかわりに
    は、会ったら心からなる談話を交換したいと希っただけである。

     私は他人の蒙 (もう) を啓 (ひら) こうと思って背延びした事も
    なければしゃがんだ事もない。いつも自分を教育するために、他人
    の事を喋ったに過ぎない。私の書くものが他人の目に我儘一杯に
    映ろうが映るまいが大きな御世話だ、と私はただ自分の弁明を
    延べたくはない。己れの弁明が即ち他人への明らかな抗議となら
    なければ、弁明も無意味であろう。どうか弁明をもって始めた一文
    が、今日の文学に対するささやかながらも一つの抗議となって終る
    ように。

 以上に引用した文が 「現代文学の不安」 の書き出し文です。「現代文学の不安」 は、やや長い評論文なので、きょうは、書き出し文のみを引用します。

 さて、私が この書き出し文を読んだとき、思わず、「うっ」 という仰天そして苦渋の呻きを洩らしました。というのは、そこに綴られている小林秀雄氏の胸中は、まさに、私が日頃抱いていた気持ち (および、気組み・覚悟) と同じだったから。ただ、小林秀雄氏が この文を綴った年齢が 29歳か 30歳であったのに較べて、私が 50歳代であることは文才の大きな隔たりをまざまざと感じます。上に綴られている気持ちは、私も 30歳代には──リレーショナル・データベース を日本に導入し普及する仕事に就いていて、世間に対して喧嘩腰だった頃には──たぶんに持っていたのですが、文才の有る無しを顕 (あら) わに意識させられる文です。そして、私が かれと同じ気持ちを持っていると謂っても、今でも、私は こういう的確な文を綴ることができない。文才の顕れた文というのは、それ自身一つの感動ですね。

 私は 「文学青年」 なので、上に引用した小林秀雄氏の文を一度読めば、そのなかで使われている語彙を変えて、かれの文を真似ることができます。そして、私が真似た文を、もし 小林秀雄氏の文を眼にしたことのない人が読めば、私を天才のように感じるでしょう。私は ふつうの (文才のない) エンジニア ですが、天才の文を真似ることができる。では、私は、モーツァルト の ピアノ・コンツェルト を真似ることができるか、あるいは、モジリアニ の絵画を真似ることができるか、、、絶対に できない。モーツァルト の作品にしても モジリアニ の作品にしても、音楽・絵画の技術を そうとうに修めていなければ できないでしょう。でも、文学の作品は、それほどの特殊な習練を積まなくても真似ることができる──この点が、「言語 (の公共性)」 の特徴でしょうね。だから、その土壌で、数多 (あまた) の 「文学青年」 「批評家」 が生まれ落ちる──私も、その一人です。

 ただ、私は、じぶんに文才のないことを知っているので、私が 「文学青年」 であると謂っても、「いつも自分を教育するために、他人の事を喋った──ここでは、「天才の文を真似た」 と読み替えてください──に過ぎない」。そして、私は、文学の怖さも知っているつもりです。すなわち、いったん、文学に足を入れたら、「二度 (ふたたび) 素 (もと) の白地になる事なし」 と。この点も、「言語」 の特徴でしょう。言語は感性・思考と同体だから。ゆえに、私も、「文学の抽象的大通りを疾駆する、理論で武装した贅沢極まる乗物に、石こそぶつけたが、乗った事は一っぺんもない」 ように配慮してきました。そして、「じぶんの ことば」 でしゃべることが いかほどに難しいか も私は思い知っています。

 
 (2010年11月 8日)


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